『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一章 仏教の展開と日本 序説(末木文美士)(後半)
今日のところは「第一章 仏教の展開と日本」の”後半“である。”前半“では、仏教の開祖、ゴータマ・シッダッタ(釈尊)の教えからインド国内での発展を、その基本的な考え方や経典などを示しながら追って行った。今日のところ”後半“では、仏教の東アジアでの発展と日本に伝来してからの進化についての説明である。それでは、読み始めよう。
東アジアのなかの日本仏教
東アジア仏教の形成と展開
日本仏教は東アジア系列に属する。東アジア系の仏教は漢訳仏典に基づく。
仏教は、後漢の時代、六七年ごろに中国に伝わり、その後経典の翻訳が行われた。その中で、鳩摩羅什の訳は、その言葉の流麗さにより普及する(鳩摩羅什以前を古訳と言い、鳩摩羅什以後を旧訳と呼ぶ)。そして、玄奘により、正確な訳が大規模になされる(玄奘以後を新訳と呼ぶ)。
翻訳作業がなされた後、多数の経典や論書を集大成する作業が行われた。インドにおいては、経典や論書は経・律・論の三部構成をなすもの(三蔵)とされていたが、大乗になるとそのような体系が崩れていたため、中国で改めてそれらの集大成がはかられ、大蔵経にまとめられた。
この体系化は、教相判釈といい、六朝時代から始まる。これを集大成した一人に、天台智顗がいる。これは後に五時八経と呼ばれる。その他に、隋時代にインドの中観派にもとづく三論教学を吉蔵が確立した。唐代に玄奘によりインドの唯識学がもたらされる。玄奘の弟子の基により法相教学が確立され、また、華厳教学が法蔵によって確立される。
そのような教学の一方で、浄土教が善導により大流行し、禅や密教も大きく発展する。このような隋代・唐代の仏教が日本に入って来る。
宋代になると儒教が復興し仏教は主流から外れる。しかし、それにより衰退することはなくむしろ民衆化して定着した。やがて一九世紀に楊文会により仏教復興へつながる。
朝鮮では、三国時代の四世紀に仏教が伝わった。新羅時代に元暁や義相によって、朝鮮独自の仏教が確立した、高麗時代には国家保護のもと仏教が発展した。しかし、李氏朝鮮時代に、儒教を国教化したため仏教は衰退した。
日本仏教の形成と展開
仏教は六世紀に朝鮮半島の百済から日本に伝わった。七世紀初めに聖徳太子が現れ、七世紀後半から八世紀にかけて唐から大蔵経が伝えられた。そして奈良時代には南部六宗(倶舎・成実・津・三論・法相・華厳)が確立し、平安初期に最澄により天台宗、空海により真言宗が加わり、八宗体制となる。さらに、一三世紀末に浄土宗・禅宗を加えて十宗となる。
また、一三世紀には、法然・親鸞・道元・日蓮などの仏教思想家が現れた。
中世の終わりごろにキリスト教が伝来する。戦国時代になると、一向一揆・法華一揆などの仏教勢力が政治的・軍事的にも伸長するが、信長や秀吉の弾圧で鎮圧され、キリスト教も激しい弾圧の後禁教となった。
その後仏教は近世体制となる。近世は儒教の時代となるが、仏教は檀家制度の下で、保護される。民衆の中に定着した。思想的には、隠元隆琦による黄檗宗は、広範な影響を与えた。
一九世紀に入ると、神道が勢力を伸ばし、明治政府下で神仏分離、廃仏毀釈などが起こる。このなかで新しい仏教の模索がなされ、清沢満之・鈴木大拙・田中智学などの思想が現れた。また、南条文雄・高楠順次郎らの学者がヨーロッパから、西洋の新しい仏教学を学んだ。
この章でまとめられている仏教の流れを読んで、断片的に知っていた人物や経典の内容が繋がっていったように思った。これまで、仏教的な本を読んで、たとえば鳩摩羅什とか天台智顗とか「法華経」とか「華厳経」とか、あ~そういう人、そういうお経あったね、って感じだったが、仏教の流れの中での位置がわかったような気がする。なるほどそうだたんだね。(つくジー)
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