「開戦に至る過程での英米とのやりとり」
加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』より

Reading Journal 2nd

『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

3章 第一次世界大戦 開戦に至る過程での英米とのやりとり

ここからは、第一次世界大戦後の日本に現れた危機感がどうして起こったのかを前節の3つの要因から説明する。本節では、第一次世界大戦前のイギリスとアメリカとの応酬が帝国議会で暴露された時の激しい政府批判について。

日本が開戦する時の外務大臣は加藤高明だった。加藤は元老の山県が躊躇する中、大正天皇のところまで押しかけて、開戦した。
日本が、第一次世界大戦に参戦した口実は日英同盟だったが、これにはイギリスは当初反対だった。
この時のイギリスの外相は、有名なエッセイ『釣り師の休日』の著者でもあるエドワード・グレイだった。
グレイは、日英同盟を理由に日本が参戦するのは、やめてくれと断っている。その理由は、まず、日英同盟が東亜、インド、中国地域の安全保障の条約であり、必ずしもドイツとの戦争で発動されるべき条約でなかったことである。そして、日本が強い要請があって、参戦することを対外的に説明ところまでは、了解したが、日本にとって厳しい条件を出した。

軍事行動の範囲を「シナ海の西及び南、ドイツの租借地ある膠州(こうしゅう)湾以外には広げない、太平洋には及ばない」と声明することを日本側に要求したのです。(抜粋)

そして、この要求を加藤らが応じないでいると一方的にこの件を日英が一致したと発表してしまった。

なぜイギリスは、同盟を組んでいる日本にこのような条件を出したのか?理由の一つは、オーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦や自治領側の日本に対する警戒感だった。もう一つは、対中貿でのイギリスの利益が減ることを恐れていた。

イギリスは、中国で南北の擾乱起こる事によって、上海・香港を拠点とする中国へのイギリスの貿易額が下がることが、なによりも苦痛で心配だったわけです。(抜粋)

そして、アメリカも日本の参戦に関して次のような事を言った。

① アメリカ政府は、日本が中国において領土拡張をはかる意図がなく、その行動が日英同盟によるものであることは、アメリカ政府の満足するところである。
② 中国国内による擾乱が発生した場合、日本あるいは他の諸国が措置をとる必要があると日本政府が考えた場合には、事前にアメリカ政府との協議を遂げられるよう、アッメリカ政府は希望する。(抜粋)

そしてこのアメリカ側の覚書は、ニューヨークからの特電として、当時野党の政友会にばれてしまう。

このようなイギリスやアメリカの行動は、主権の侵害である、加藤外相は弱腰だと政友会は政府を激しく攻撃した。そして、日本の中にイギリスやアメリカへの敵意が芽生えた。

ドイツに対して一緒に戦うべき同じ連合国であるイギリス、そして、のちに連合国側に加わって参戦するアメリカへの敵意が、日本の中に芽生えているというのは不思議なことですね。(抜粋)

このことが、後のパリ講和会議で、ドイツが持っていた山東半島の権益を「日本の手を経ないで中国に返す」か「日本が受領した後、適切な時期に中国に返す」かの激論に繋がった。

パリで生じた外交上の難題は、すべて、一昔前の第二次大隈・憲政会内閣が悪かったからだ、加藤外相がだめだったからだ、このような記憶が強調されてしまう。そのような構造が、長い戦争の期間にできてしまったのです。(抜粋)

関連書:エドワード・グレイ他(著)『釣り師の休日』角川書店1997年

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