『日本語の古典』 山口 仲美 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 庶民が楽しむ言葉の世界ーーー江戸時代 28 蘭学事始ーー翻訳者の良心の告白
蘭東事始と蘭学事始
今日のところは、杉田玄白の『蘭東事始 』である。一般的には『蘭学事始』として知られているが、『蘭東事始』が正式名称である。実際、序文に
「蘭已に東せりとやいふべき起源(=オランダ学が東の日本にやってきた当時の様子)」(抜粋)
と書名の由来が書いてある。
『蘭学事始』の書名は、明治二年に福沢諭吉が『和蘭事始』という書名の写本を一般向けに出版する時にわかりやすさを考えて名づけた。それでは読み始めよう。
『蘭東事始』には、オランダ学創始をめぐる事実、特に『解体新書』の翻訳の経緯が書かれている。杉田玄白は八二歳になってから書き始め、全体を書き上げてから、弟子の大槻玄沢に託す。
なぜそれほどまでして『蘭東事始』を書き上げる事に執着したのか?(抜粋)
『解体新書』の翻訳者
解体新書の冒頭には、「杉田玄白訳」と記されている。そしてその後に「中川淳庵校正、石川玄常参校、桂川甫周校閲」とある。そして巻末に「杉田玄白著」と記されている。あたかも杉田玄白が一人で成し遂げた翻訳のように見えるが、『蘭東事始』を読むと翻訳事業は前野良沢に指導されていることがわかる。
『解体新書』には前野良沢の名前が一切出てこない。ここに『蘭東事始』が書かれなければならなかった真の理由が秘められているように思えます。それを述べるのが、ここでのテーマです。(抜粋)
『蘭東事始』の成立
『蘭東事始』では、前野良沢のことを次のように説明している。
「天然の奇士(=生まれつきの変人)」で、人のやらないオランダ語を学ぼうとする熱意は人一倍強く、オランダ語の本を見て、「言語が異なるといっても、同じ人間のすることであるから、理解できないはずはない」として、オランダ語に通じている青木昆陽の弟子になって、オランダ語のマスターに心を砕いている。(抜粋)
そして玄白の方は、通訳者の西善三郎にオランダ語を学ぶのは至難だといわれ、
「そのごとく面倒なる事を為しとぐる気根はなし、徒に月日を費すは無益なる事とおもひ、敢えて学ぶ心はなくして帰りぬ」(抜粋)
とオランダ語の習得を諦めてしまった。
そして明和八年(一七七一)三月三日に人体解剖が行われると聞いた、玄白と良沢は、懐に同じ医学書すなわち『ターヘルアナトミア』を携えて人体解剖に立ち会った。そして、玄白と良沢の二人は『ターヘルアナトミア』の正確なことを実感し、これを翻訳して医学の発展に尽くそうと思う。良沢はオランダ語ならば少しわかるので『ターヘルアナトミア』を一緒に読み始めようと提案した。
翌日、良沢は玄白と淳庵を自宅に呼んで翻訳作業を開始する。
「ターフルアナトミイ(=ターヘルアナトミアと同じ)の書に打向ひしに、誠に艪・舵なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」。(抜粋)
という状況だった。そして、良沢については
「齢も翁(=玄白)などよりは十年の長たりし老輩なれば、これを盟主と定め、先生と仰ぐこととなしぬ」。(抜粋)
と良沢を中心人物として翻訳作業は始まった。
翻訳の苦労は一通りではなかった。
「長き日の春の一日ひは明らめられず、日の暮るまで考え詰め、互いににらみ合て、僅一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬ事にてありしなり」。(抜粋)
反対に意味がひらめくこともある。
玄白は「鼻の面中にありて、堆起せるものなれば、「フルヘーヘンド」は、堆といふ事になるべし。しかれば此語は、堆と訳しては如何といひければ、各これを聞て、甚尤なり、堆と釈さば正当すべし」。(抜粋)
「其時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり」。(抜粋)
と玄白は喜んでいる。またどう考えても分からない語句は丸の中に十を書いて「轡十文字」と名づけて、
「それも又くつわ十文字くつわ十文字と申したりき」。(抜粋)
という状態が長く続いた。しかし一年も過ぎると
「読むに随ひ自然と」(抜粋)
分かるようになり、二、三年もたつと、翻訳作業は進むようになる。
玄白は、翻訳の会合が終わると、その日のうちに、訳文を考え草稿を作った。そして、その草稿を一一回も書き直し、四年後に完成させる。
『遂に解体新書翻訳の業成就したり』。(抜粋)
そして、『解体新書』の翻訳者は「杉田玄白」の一人の名前になり、「先生」と仰いで頼った「前田良沢」の名前はまったく削除されてしまう。
良沢は、以後病気と称して門を閉ざして、翻訳作業に専念し、ひっそりとなくなる。一方、玄白は、幕府にも重用され、多くの弟子を持ち裕福な晩年を送った。
『蘭東事始』が書かれたわけ
著者は、玄白は『蘭東事始』を書くことにより、『解体新書』のへの良沢の貢献を公にし、良沢に謝罪しているように思える、と言っている。功名心から自分一人の業績にしてしまった負い目を、玄白は死の直前まで抱き続けていた。
弟子に整理してもらった『蘭東事始』の原稿を見て、玄白は「私の年来の願いは、これで埋め合わせられた」と言って喜んでいます。『蘭東事始』は、玄白の良心の告白といった趣を秘めており、それがなんとも言えない魅力になっています。(抜粋)
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