『カンディード』あるいは速度について
イタノ・カルヴィーノ 『なぜ古典を読むのか』より

Reading Journal 2nd

『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴィーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

『カンディード』あるいは速度について

月世界のシラノ・ド・ベルジュラック」を読み終ったので、今度はヴォルテール『カンディード』についての章を読むことにした。シラノ・ド・ベルジュラックは、知る人ぞ知るみたいな本であるようだが、ボクでも『カンディード』は、名前ぐらいは知っている・・・が、しかし、名前しか知らない。ここでは、『カンディード』の速さに注目しその概要を示すとともに、最後にその哲学小説コント・フィロゾフィックとしての価値について論じている。それでは読み始めよう。

カンディードの速度について

『カンディード』に今日の私たちが魅せられるのは、もはや〈哲学小説コント・フィロゾフィック〉としてでもなく、風刺とか、ある種の倫理、あるいは世界観の具体化などではなくて、作品に備わったリズムのためだ。(抜粋)

今日の私たちは、『カンディード』の風刺やある種の倫理、世界観の具体化などの《哲学小説》の要素ではなく、その速度、リズム、軽妙さ、つまり陽気で原始的なヴァイタリティ―に魅了される

著者は、軽妙な速度であらすじを語りながら、「キュネゴンド」の話が八章のたった三ページで語られること、キュネゴンドがパングロスとカンディードに巡り合い、カンディードと結ばれる話が八章のたった三ページ、その後、キュネゴンドが叫ぶところまでが九章のたった二ページで語られるとその速度を強調している。

ヴォルテールのユーモアの手法

ユーモア作家のヴォルテールの独創性は、時をうつさずに大惨事を続発させるという、コミック映画の手法を発明したところにある。そしてふいにリズムを速めることで不条理感を演出する。最初「ながなが」と語られた主人公たちの不運が、あるとき息の詰まるような速さで疾走する。

カンディードは、八十ページ間世界一周と言いたげに、ドイツ ‐ オランダ  ‐ポルトガル ‐  南アフリカ ‐ フランス  ‐イギリス ‐ ヴェネチア ‐ トルコと飛び回る。そして、それは世界の時事問題の一大映画作品にもなっている。七年戦争で殺戮の犠牲となった村、リスボン大地震、宗教裁判の審問、スペインとポルトガルの支配を拒否するパラグアイのイエズス会士、インカの富などが映像化され、淋病の蔓延、海賊の暗躍、モロッコ内戦、黒人奴隷の搾取などの速報、パリの文壇、社交界のニュースに王位を追われた国王へのインタビューまでついている。

幸福の国・エル・ドラード

この崩壊した世界で、ただ一つの例外は、賢明な住民がいる幸福な国・エル・ドラードである。しかし、このインカの国の道路を被う金粉やダイヤモンドの小石が旧大陸の人にとってどれほどの価値があるかをしらないから、幸福と富は関係ない

このカンディードがこの国を見つけるのは、貴金属の鉱脈の中であるが、ここで初めてパングロスがいう「可能な最良の世界は現実かもしれない」という言葉が理にかなったと思えた。

そして、この場所はユートピアかもしれないと思う。なぜならば、ここは人の足では行きつくことの出来ない、アンデス山脈の峰々に隠れている場所、地図の断面にしか存在しない、場所でない場所であるからである。

苦難に満ちた現実の世界

このユートピア以外の世界は、「煩わしい苦難」に満ちている。しかし『カンディード』の主人公たちは、ゴム人形であるかのように不死身である。パングロスなどは、淋病でからだが腐ってしまうが、その後絞首刑になり、ガレー船の櫂に縛られたりするが、またすぐに、元気でぴんぴんしている。

だが、これらの苦しみの代償を著者があまりにも軽視しているとうのはあたらないだろう。(抜粋)

なぜなら、冒頭では生き生きしていた女主人のキュネゴンドが、やがて肌が真っ黒、目やにだらけ、胸はぺちゃんこ、ほっぺは皺だらけ、腕にあかぎれ、の女になることを、読者に紹介する勇気のある小説家など他にいないからである。

ヴォルテールの世界観

『カンディード』をここまで読んできて、私たちは外観ばかりを、すなわち「表面だけ」を読んでいたつもりが、いつのまにか「哲学」の核心に、ヴォルテールの世界観の核心にいることに気づく。(抜粋)

それは、パングロスがいうような楽観主義の部分に哲学を認めるのではない。なぜなら本当の教育者は、楽観主義のパングロスでなく、悲観主義のマルタンであるからだ。しかし、マルタンもまた、勝利者ではない。

悪について形而上学的な説明を求めても無駄だ、悪は主観的なものであり、これは定義することも、計測することも不可能なものだ、と。ヴォルテールの信条は反摂理決定論で、ということは、彼の神には限界があるが、その限界がどの辺りにあるかは、わからない、宇宙の設計図は存在しないか、たとえ存在したとしても、それは神にしかわからないもので、人間には知ることができない。ヴォルテールの合理主義とは、倫理的、主意主義的な姿勢であって、パスカルのそれと同様、人間には測りしれない神学的な背景のなかにイメージされている。(抜粋)

Il faut cultiver notre jardin

このような大惨事の行列が、口先で笑うだけですごされるのは、人生が短く、足りない物だらけだからである。もし、何も不幸の無い人間がいて、あらゆる点で人生から恩恵だけをこうっていたとすれば、その人は満足と感嘆のかわりに、すべての欠点ばかりを見つけている、真に否定的な人物になっているだろう。パンタグロスとマルタンがこのようなひどい苦しみや危険にみまわれて七転八倒するのは、これが人生の本質だからである。

深いところを流れる知恵の水脈は、ところどころで協役的な代弁者の声として、地表に現れる。そして最後のところで有名な訓戒「われわれの野菜畑をたがやさなければならない」が全容を示す。

この訓戒は、反形而上学的、知的な意味では「われわれが直接の行動で実際に解決できる以外の問題を自分に課するべきでない」という意味にとれる。社会的な意味としては「すべての価値の本質として労働を肯定している」最初の例となっている。

この”Il faut cultiver notre jardin(我々は自分の畑をたがやさなければならない)”は、私たちにの心配や苦悩にくらべて調子っぱずれに聞こえる。しかし、この発言が最後のページでなされるのは意味がある。

労働を苦悩と考えられていないことで、この言葉は「カンディード」の世界から一歩踏み出している。つまり、インカと同じようにユートピアなのである。しかし、この発言が示す認識論的、倫理でラディカルな変革を忘れてはならない。

人間は、もはや個人と超越的な善悪との関係によって測られるべきではなく、大小にかかわらず個人にできることによって測られるべきだという思想。そこにこそ、厳密な資本主義的な意味での「生産性尊重主義的」な労働の倫理の源泉があり、また、それがなくては解決不可能な総合的な問題など存在しない、実務的で責任の所在を意識する義務についての倫理が生まれる。今日、人間にとっての真の選択は、つまり、ここに端を発しているのだ。(抜粋)

関連図書:ヴォルテール(著)『カンディード 他五篇』、岩波書店(岩波文庫)、2005年

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