『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 立憲主義の成立(後半)
今日のところは「第一章 立憲主義の成立」”後半“である。”前半“では、近代のように価値観・世界観が多元化した社会において、考え方を異とする人たちと、互いを認め合い、平等に平和に暮らすための枠組みとして、立憲主義が誕生したことが解説された。立憲主義は、公と私の区分や政治のプロセスがその役割を適正化するなどの機能を持つ。
そして、今日のところ“後半”では、憲法の改訂論議について立憲主義の立場から考える。それでは読み始めよう。
「分かりやすい」世界と憲法改正
近代は、人々の価値観・世界観が互いに比較にならないほど異なっている。そのような社会は、人の本性に反しているため、人々は一つの価値観・世界観が支配する「分かりやすい」世界に生きたいと望むのが普通である。
そして、「憲法を変える」ことにより、「分かりやすい」世界が実現できるのではないかという夢を抱く人々がいても不思議ではない。日本の「歴史、伝統、文化」とか、日本人のDNAとか言い出す人が出てくるのは、ごく自然なことである。
しかし、このような目論見の下で憲法改正案を作成しても、それを国民投票にかけ承認してもらおうとするならば、相当な困難が待ち受けているはずである。そのような案に賛成する人は少ないからである。
自由民主党が二〇〇五年一〇月末に公表した「新憲法草案」が思いのほか復古的色彩に欠けていたのは、真剣に憲法改正の実現を目指している以上は、自然にとるべき方向をとった結果であろう。しかし、その反面、何のための改正なのかが明確でなくなったことは否めない。(抜粋)
憲法典を変えることと憲法を変えることの違いは第5章で、憲法改正の手順については第6章で取り扱う。
憲法改正論議を考える
ここで著者は、
立憲主義の考え方に立つ憲法は、政治のプロセスがその本来の領分を踏み越えて個々人の良心に任されるべき領域に入り込んだり、政治のプロセスの働き自体を損ねかねない危険な選択をしたりしないよう、あらかじめ選択の幅を制限するというのが、主な役割である。(抜粋)
と説明したうえで、そのような理解が十分行き届いていないと思えるような憲法改定論議があると指摘し、いくつかについてコメントしている。
- 個々人の良心にまかされるべき領域に入り込んで、人々の考えようやものの見方をコントロールしようと企てていると思われる議論
これが人として生きるべき道だと確信を持つ人は、それを憲法や政治の仕組みを通して押し広めたいと思うのが自然だが、それは無駄で非生産的である。なぜならば、他人の気持ちを変えようとしてもどうにもならず、かつ現在のように価値観・世界観が多様化した社会では、そのような行いは強い反発を招く。 - 多少とも結構そうなことがあれば、なんでも憲法に一応、書き込もうという議論
これは、人の気持ちとして自然であるが、立憲主義にもとづく憲法にはふさわしくない。
「プライバシーの権利」「環境権」を憲法に入れようという議論があるが、これらは国会の制定法や裁判所の判例を通じて具体化されなければ、何の意味ももたない条文となる。法律がなければ意味がないこと、また法律ができればできることは、憲法の条文に書く必要はない。 - 「国を守る責務」
「国を守る責務」というものも同じで、憲法に書き込まれたとしても、法律を作り違反したときの罰則なりを作らなければ意味はなく、反対に法律が作られていれば憲法に書き加える必要はない。さらに、ここで問題になるのは、守られる「国」とは何かという問題である(これについては後の項で説明がある) - 「九条改正論」
これらと同じことが「憲法九条改正論」にも当てはまる。まず、従来の政府解釈で認められる自衛権のための実力の保持を明記しようというのであれば、意味のない「改正」である。これに対して、従来の制約を超えたことを認めるための改正である場合は、軍の規範や行動をどのように制約するのかという肝心な点について明らかにしなければならない。 - 財政均衡条項
財政均衡条項を書き込むという提案についても同様なことがいえ、不均衡な予算を内閣が提出し、国会が承認したとき、その効力についてどうするのか、という問題がある。財政均衡を目指すべきとう心構えにすぎないならば憲法に書き込む必要はない。
このように、憲法改正論議の例をいくつか挙げて解説したのち、著者は、
憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくくなっているかといえば、意味のないことや危なっかしいことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立法プロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。(抜粋)
と説明している。
そしてここで、「憲法の文言を変えること自体に意味がある」ふりをするのは、やめて「文言を変えたその結果どうなるのか」に注意を向けるべきである、と言っている。
「国を守る責務」について
ここで著者は、前項の「国を守る責務」でふれた「守られる国」とは何かという問題から説明を始めている。
自由民主党が二〇〇五年末に公表した「新憲法草案」の前文には、日本国民の「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら支え守る責務」が盛り込まれている。
著者は、この文章について、国民に対して守るように要求できる「国」と何であるかという、問題があると言っている。
この「守るべき国」とは、国土とも、人々の暮らしとも厳密に一致していない。
この事を説明するために、刑法の「内乱罪」が処罰するのは、「憲法の定める統治の基本秩序」であること、憲法で定めている「公務員に要求されること」は、「憲法での忠実」であることの例を説明し、さらに
レオ・シュトラウスが喝破したように、古代ギリシャ以来、「政治犯罪」とは、現行の憲法に対する犯罪であって、憲法によって国家とされる依然に裸の国土や人々の暮らしに対する犯罪ではない。(抜粋)
と説明し、憲法でいう「守るべき国」とは国土や人々の暮らしではないと言っている。
そして、日本人が太平洋戦争を通して守ろうとしたのは、「国体」(=戦前の憲法の基本秩序)であり、冷戦下で争われたのも、共産主義かリベラル・デモクラシーかという、各陣営の標榜する憲法の基本原理である。
悲惨な犠牲を課す戦争を通じてで、守るように憲法が要求しうるのは、あくまで自分自身の基本原理である。(抜粋)
つまり、憲法が守るように要求できる「国」とは現在の憲法の秩序そのものであり、国土や人々の暮らしではない。
そして、日本の憲法の基本秩序とは、「リベラル・デモクラシー」と「平和主義」である。
そして、日本が無条件降伏をして、憲法を変えることを受け入れたのは、それ以上、国土や暮らしの破壊を防ぐためであり、東西冷戦は、東側諸国が、自分たちの国土と暮らしを守るためには、むしろ憲法を書き換えたほうが良いと気づいた時に終了した。
国土や人々の暮らしを守るためであれば、ときには、憲法自体を変更することが必要となる。(抜粋)
ここの議論はちょっと、複雑だった。憲法学的には、「憲法で規定できる国」とは「憲法自身」であるという話と、「国土や暮らしを守るためには、憲法を変える必要となることもある、という話が絡まっているように思った。
さらには、「国土や暮らし」の方が「憲法」より上って感じて、っというか、「国土や暮らしを守る」ために憲法があるということだと思う。(つくジー)
さらに著者は、憲法九条について次のように言っている。
こうした観点からすると、九条を変更して従来の政府解釈の下での歯止めを取り払うことが、果たして「国を守る」ことになるのかという疑いが生ずることになる。現行憲法の基本原理の一つである平和主義を掘り崩しかねない危険をもっているからである。(抜粋)
ここも、ちょっと難しい。「国を守る」=「憲法を守る」なのだから、平和主義を守らなければならないはずで、その場合、国を守るために「憲法九条を変える」って、のは意味が通らないって話でしょう、おそらく。(つくジー)
ここで著者は、「国際的なテロとの戦いのために、平和主義を犠牲にしてでも、権威主義的国家を打倒して英米と一緒にリベラル・デモクラシーを輸出すべき」、という議論について言及している。
まず、リベラル・デモクラシーを輸出することは、短期的にはテロ対策にならない。なぜならば、彼らが問題にしているのは、伝統的なイスラム社会ではなく、そこで進む近代化・西洋化と国際化であり、つまり、イスラム教が問題というよりもイスラム教が社会生活を束ねる権威を喪ったことにあるからである。
これを踏まえて、著者は次のように結論付けている。
日本がリベラル・デモクラシーの擁護に貢献できるとすれば、平和主義の下で培われた日本への信頼を裏切って戦争による民主主義の輸出に加担することでも、市場万能主義の名の下に弱者を切り捨ての経済政策を追求することでもなく、むしろ、現実のヨーロッパ社会のあり方を超えて、多様な価値観や文化を抱擁する公平で寛容な社会のモデルを創造することによってではないだろうか。「国を守る」ために、現行の九条の下での実力行使に対する歯止めを今、捨てる理由はなさそうである。(抜粋)
ここまで読んで、『ポピュリズムとは何か』を思い出した。著者のヤン=ヴェルナー・ミュラーも、ポピュリストを生んでいる背景には、現代ヨーロッパの体制の不備、弱者の切り捨てやエリート主義があると暗に示していたよう思う。(つくジー)
関連図書:ヤン=ヴェルナー・ミュラー(著)『ポピュリズムとは何か』、岩波書店、2017年
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