子貢 – 「一を聞いて二を知る」秀才 — 弟子たちとの交わり(その3)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 弟子たちとの交わり(その3) — 2 大いなる弟子たち — 子貢 「一を聞いて二を知る」秀才

今日のところは、「第三章 弟子たちのとの交わり」(その3)である。前回“その2”では、顔回が取り上げられた。今日のところは、孔子の三人の高弟の二人目、「子貢」である。それでは読み始めよう。

子貢 — 「一を聞いて二を知る」秀才

No.81

子曰しいわく、かいちかきか。しばしばむなし。めいけずして、貨殖かしょくす。おもんばかればすなわしばあたる。(先進第十一)(抜粋)
先生は言われた。「顔回がんかいは理想的存在に近いだろう。だが、しょっちゅう無一文になる。端木賜たんばくしすなわち子貢しこう)は君命を受けないで、自由に商売し金儲けをする。予測すればしばしば的中する」。(抜粋)

これは、顔回と子貢を比較した言葉である。顔回は孔子の理想とする存在に近かったが貧乏だった(No76参照)。それに対して子貢は、魯の外交使節として斉・呉・越などに赴いたり、自由な商売で金儲けをするなど裕福だった。

子貢が大商人として『史記』の「貨殖列伝」にも次のような記載がある。

「(子貢は)そう・魯の地方で、物資を売りに出したり買占めしたりして貨殖した。孔子の高弟のうち、子貢がもっとも金持ちだった云々」(抜粋)

ここで著者は、貧乏は顔回と、金儲けの上手は子貢について孔子は優越をつけていないと注意し、孔子は優秀な二人の弟子のそれぞれ個性的な生き方を、温かく無見守っていると言っている。

No.82

子貢曰しこういわく、まずしくてへつらうことく、んでおごることきは、如何いかん子曰しいわく、いままずしくてたのしみ。んでれいこのものかざるなり子貢曰しこういわく、に、せつするがごとするがごとく、たくするがごとするがごとしとうは、これうか。子曰しいわく、や、はじめてともきのみ。これおうげてらいものなり。(学而第一)(抜粋)
子貢しこうは言った。「貧しくとも卑屈にならず、金持ちでも高ぶらないというのは、どうでしょうか」。先生は言われた。「それもよいが、貧しくとも楽しく暮らし、金持ちであって礼を好む者には及ばないだろう」。子貢は言った。「『詩経』の「せつするがごとするがごとく、たくするがごとするがごとし」というのは、このことをいうのですね」。先生は言われた。「子貢しこうの本名)よ。おまえとこそはじめていっしょに詩の話ができるというものだ。おまえは何かを告げると、その先のことがわかる人間だ」。(抜粋)

この条は子貢の質問に対する孔子の答えに、子貢が『詩経』の言葉を引用して返答し、それを孔子が絶賛したという話である。

著者は、このような孔子と子貢の会話はいきいきとしてテンポがはやく、快感を覚えると評している。

No.83

子貢問しこうといていわく、如何いかん子曰しいわく、なんじ器也うつわなりいわく、なんうつわぞや。いわく、瑚璉也これんなり。(公冶長第五)(抜粋)
子貢しこうがたずねて言った。「わたくし(子貢の本名)はどうですか」。先生は言われた。「おまえはうつわだ」。(子貢は)言った。「何の器ですか」。先生は言われた。「瑚璉これんだ」。(抜粋)

瑚璉これん」は、宗廟でお供え物を盛るための最上級の器である。

孔子は、君子くんしうつわならず(君子は用途のきまった器物であってはならないNo3参照)。と言っていてこれが、持論だった。しかし、子貢の問いに、うっかり「器」であると孔子が言ってしまう。そして気色ばった子貢の「何の器ですか」という問いに、孔子が「瑚璉これん」と答えて事なきを得たという話である。著者は、この条にもさまざまな解釈があるが、このように読みたい、としている。

No.84

 子貢しこういていわく、なんじかいいず]れかまされる。こたえていわく、なんえてかいのぞまん。かいいちいてもっじゅうる。いちきいもっる。子曰しいわく、かざるなりれとなんじかざるなり。(公冶長第五)(抜粋)
先生は子貢しこうに向かって言われた。「おまえと顔回がんかいはどちらがすぐれているかね」。(子貢は)答えて言った。「わたくし(子貢の本名)は顔回におよびもつきません。顔回は一を聞いて十を悟りますが、私は一を聞いて二を悟るだけです」。先生は言われた。「(顔回に)おまえは、およばないな、私もおまえもおよばないのだ」。(抜粋)

孔子が子貢に、顔回と自分との評価を尋ねた時の話である。両者は互いにライバルであるが、ここで子貢はあさりと顔回に兜を脱ぐ。孔子の答えは、そのような子貢に対する称賛と励ましであったと、著者は評している。

No.85

子貢問しこうとう。しょういずれかまされる。子曰しいわく、ぎたり、しょうおよばず。いわく、しからばすなわ師愈しまされるか。子曰しいわく、ぎたるはおよばざるがごとし。(先進第十一)(抜粋)
こうがたずねた。「顓孫師せんそんしあざな子張しちょう)としょう卜商ぼくしょうあざな子夏しか)とどっちがすぐれているでしょうか」。先生は言われた「師はやりすぎであり。商は引っ込み思案だ」。(子貢は)言った。「ならば師のほうがすぐれていますか」。先生は言われた。「やるすぎと引っ込み思案は似たようなものだ」。(抜粋)

この条も孔子の人物評価である。子貢が「師」と「商」のどちらが優れているかと公私に問う。すると「師」はやりすぎで「商」は引っ込み思案であるといい、どちらも似たようなものあると評した。

これが、後世に広く流布するぎたるはおよばざるがごとし」の出典となった。

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