黒い死に覆われた街 — Marseille(マルセイユ)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 3 歴史の断片 / 黒い死に覆われた街 — Marseille(マルセイユ)

「Chapter 2 芸術の物語」が終わって、今日から「Chapter 3 歴史の断面」となる。まずは、ペストが蔓延したマルセイユの話である。

一七一九年マルセイユ

一七一九年、大型船グラン=サン=タントワー号がマルセイユを出港した。船は、エーゲ海の島、シリアなどを寄港し、年が明けてからリビアのトリポリからキプロス島へ向けて出港する。その際、積み荷だけでなく一四人の一般客を乗せていた。二日後に、乗客の一人が亡くなり、次々と犠牲者を出し、五月にマルセイユに戻ってきた。

そして、積み荷を降ろしている間にも次々と人が亡くなりつづけ、感染はすさまじい勢いで広まった。

彼らのももの付け根には黒紫の腫れが見つかった。衛生局の医師はペストと診断し、急いで報告をあげたが、その時には船の残りの水夫や乗客は全員がすでに街中に散らばってしまっていた。(抜粋)

このマルセイユのペストの状況は、ジロー神父により詳細に記録され、現在でもつぶさに知ることができる。

マルセイユの歴史

マルセイユはフランスの地中海側の玄関口であるため、昔から貿易だけでなく、戦争や時にはこうして病までここを入口としてフランスへと広がっていった。(抜粋)

伝説では、マルセイユは、次のように始まる。もともとリグーリア人の王の版図だったところへ、フヵカイア人の船団がやってくる。リグーリアには、宴で娘から杯を受け取った男が夫となるという習慣があったが、それを知らない王の娘ジプティスが、唯の歓迎のつもりで、船団長のプロティスに杯を差し出してしまう。そのため二人は夫婦となり、王は娘に持参金として海沿いの丘を与えた。これがマルセイユの始まりである。

そのような伝説のあるマルセイユはギリシア系の諸都市と交易して豊かになった。そして、中世には十字軍遠征の兵を送り出す拠点の港となり、ジェノヴァ、ヴェネツィアと並ぶ国際港となる

ペストとマルセイユ

しかし、各地から入ってくる多くの商品や人に混じって、病もまたマルセイユに入ってくる。(抜粋)

一四世紀の大流行

マルセイユでのペストの流行は、詳細な記録は残っていないが五四三年に遡る。そして詳細な記録が残る最初のペストは、一三四七年の事である。ジェノヴァの一二隻のガレー船団が交易から帰る途中、洋上でペストが発生する。寄港した各地でペストが流行し、船団も三隻まで減ってしまう。そして、その騒ぎは祖国ジェノヴァまで伝わり、彼らは、入港を拒否されてしまう。そしてまだ情報が伝わっていなかったマルセイユに入港しペストが発生してしまう。ペストはやがて南フランスへ、そして欧州へと広がっていった。

この病気は、腺ペストである。もともとはネズミなどのげっ歯類の病気だが、それはノミが介在することにより人間に移る。二日から一週間程度で高熱を発し、主に太腿の付け根のリンパ腺がはれあがる。この黒紫色の腫れのため「黒死病」と呼ばれるようになった。抗生物質もなく衛生環境も悪かった当時のヨーロッパでは黒死病は我が物顔で荒らしまわった。

一三四八年には、アルプスを越えて、翌年にはスイス、フランス全土およびドイツの南半分にひろがる。その後一三八五年には北海と大西洋沿岸に達し、その後三年にわたってヨーロッパで甚大な被害をもたらした。この一四世紀の大流行では、二〇〇〇万から二五〇〇万の人命がうしなわれた。それは当時のヨーロッパの三人か四人に一人の割合である。

ペストとその治療法

ペスト菌は、一八九四年に北里柴三郎によって発見されるまでその存在すら知られていなかった。そのため当時治療として行われていたのは、懺悔し聖水を振りかけることだった。ペストが人から人へ移ることが、わかっていたため、マスクをつけ空気を清浄化すると考えられていたハーブをその中に詰めた。医師も直接患部に触れないように、厚い皮手袋をし、触診のかわりのため細い棒を持っていた。当時は、香を焚いたり、はてはハーブをそのまま食べたりすることが唯一の予防法だった。

一七一九年の大流行

冒頭の一七一九年に始まった大流行時、この地方を統括する高等法院は、マルセイユへの渡航を禁止し封鎖した。すべてのコンタクトが絶たれたマルセイユでは、隔離状態の中数えきれないほどの死者がでる。街に災禍をもたらしたグラン=サン=タントワーヌ号には火がつけられ沈められた。このペストの流行のためマルセイユでは三万人の犠牲者がでた。それは街の人口の約三人に一人である。そして、ペストはしだいに沈静化し一七二三年になりようやく市門の警戒が解かれた。

この時の記憶がよほど強く残っているのか、マルセイユには一七二〇年のペストにまつわる記録や資料の展示、芸術作品が多く残されている。マルセイユ歴史博物館ではそうした貴重な史料を見ることができ、近年のコロナ禍に際して多くの教訓が生かされたと伝えられる。(抜粋)

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