『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
Chapter 2 芸術の物語 / 映画の誕生— Lyon(リヨン)
リオンの街
フランス第二の都市・リオンは、ローヌ川とソーヌ川が合流するところにある。その地の利により、先史時代にはガリア人が定住していた。そしてローマ帝国はこの地を征服した。ローマ人により、ルグドゥヌムと呼ばれたこの地は、帝政ローマの発展と共に、兵や物資の供給の中継地として重要度が増し、ガリアを四つに分けた南東部にある諸州の首都となる。そしていつしかフランス流にリオンと呼ばれるようになる。
陶器産業や後に絹の産業によって街は富み、特にフルヴィエールの丘の上には、あたかもアテネのアクアポリスの丘のように神殿や劇場などが並んでいた。ここにローマ都市の中心となるフォールムがあったため「古いフォールム」を意味するラテン語からフルヴィエールの名ができた。点在は丘の上にノートルダム大聖堂があらたに建てられ、一五〇年以上の歴史をもつケーブルカーが平地と丘を結んでいる。(抜粋)
この街は多くの文化人を輩出している。
- アール・ヌーヴォーを牽引したエクトル・ギマール
- 象徴主義のピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
- カリカルチャー文化を育てたシャルル・フィリポン
- ギメ東洋美術館を創設したエミール・ギメ
- 料理家のポール・ボキューズ
- 文学者のフランソワ・ラブレー
- 文学者のアントワーヌ・サン=テグジュペリ
(ペルクール広場に銅像が建っている)
映画の誕生の地・リオン
そして、映画を文化として定着させたリュミエール兄弟もリオンの出身である。リュミエール兄弟の父は、八歳と六歳の息子をつれリオンに移り住み写真スタジオを経営した。オーギュストとルイの兄弟は、工業高校でまなび、父のスタジオを手伝うようになる。工業高校で化学を学んだルイはわずか一四歳で感光乳剤の改良に取り組み、一年後に改良型の臭化銀ゼラチンによる乾板感光材の開発に成功する。いわゆる「エチケット・ブルー」の登場である。この「エチケット・ブルー」は、たちまち流行し、一家は工場でこれを大量生産した。
当時、動画の撮影と映写の開発が競うように始まっていたが、当時の「キネトスコープ」では、覗き穴から動画を見る方法で、一台につき一人だけしか鑑賞できなかった。連続撮影した動画をスムーズに見せるためには、フィルムに当てる光を高速で明滅を繰り返す必要があった。そして、ルイはミシンのシステムを応用することでこの動作を可能にした。
これから先の性向はよく知られている。彼らはまず自分たちの工場の門から、仕事を終えて出てくる人々の姿を撮影した。これが世界最初に、撮影されて多くの人々の前で上映された映画となった。(抜粋)
彼らの工場と隣にあった屋敷は、「アンステイトゥート・リュミエール(リュミエール研究所)」として映画の歴史を伝える博物館や映画学校、資料館や映画上映館などからなる複合施設となっている。
彼らの撮影した動画は、無音声、白黒で二~三分のものだが、多くの人が観に来るようになる。そして、パリに上映館を貸し出し、これが有料で上映される最初の映画館となった。

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