「嘉納治五郎」(その2)
斎藤兆史『英語達人列伝 II』より

Reading Journal 2nd

『英語達人列伝 II』 斎藤兆史 著 ‎
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第I章 嘉納治五郎(後半)

節の後半では、庭野吉弘の『日本英学史叙説』をたよりに、嘉納の英語を検討している。

庭野吉弘は『日本英学史叙説』において、次の3つを嘉納の代表的英語教育論としている。
1.”To the Japanese Teachers of English”、『英語教授』、1910
2.第二回英語教員大会、”Opening Address”(開会の辞)、1914、後に『英語教授』に収録
3.「我が国の国際的位置を高むる上に英語はいかなる職能を有するか」、『中等教育』、1925
(雑誌『英語教授』については、斎藤兆史著『日本人と英語 – もうひとつの英語百年史』研究社、2007 参照)

まず、1.の英語論文について斎藤は、その英語を解説し、また内容の確かさに感銘を受けている。そして最後に英語教師として”for”の使い方の正しさに驚いている。

僕はこの主張そのものにも感銘を受けたが、それ以上に、英文の質のよさに驚いた。英語学習者のみならず、下手をすると母語話者でも正しい使い方を知らない。等位接続詞for(拙著『英語達人塾』第4章を参照のこと)も、いずれの文でも見事に使いこなしている。この件については、彼の英語演説の原稿を分析する事で、いっそう際立ってくる。(抜粋)

次に嘉納の英語演説の原稿である、2.に移りその英文を解説している。ここでもやはりその内容に感銘を受けている。そして、1.のところで予告があった、“for”の使い方については、こう述べている。

ところで、ここまでの嘉納の英語の特徴から見て、一文目のbecauseはforとなるべきところではないかと考えた読者は、なかなかの英語通だ。たしかにこれが英語論文であれば、もしかしたら彼はforを用いていたかもしれないだが、注意してほしいのは、これが演説の原稿だということである。
接続詞のforは、いまでは文語的な文章以外にはほとんど用いられない。現代英語の口語表現において理由や根拠を述べる際には、代わりにbecauseを用いるのが普通である。だからこそ、前者の正しい用法を知らず、そんな単語を教える日本の英語教育は間違っているなどと主張する母語話者が出てきたりする。
引用された演説原稿が全体的に先の論文よりも簡潔な英語で書かれていることを考えると、嘉納は、書き英語と話し英語の違いを意識しながらこれを書いたのだろう。その語感の鋭さに驚くばかりだ。(抜粋)

forの用法とbecauseの用法の違いといっても、英語白帯のボクには、そもそもforの用法ってなんでしたっけ?って感じで・・・・大反省!


最後に日本語論文の3.について斎藤が解説している。
論文の欧米から来たものならどんなものでも歓迎する風潮を戒めた文章を引いて、

残念ながら、日本では相変わらずこの悪弊が根強く存在する。それどころか、本来はバランスの取れた国際感覚の育成を使命の一つとする英語教育において、日本人が日本人のために編み出した教授法はことごとく否定し、欧米由来の英語教授法を無批判的に受け入れる傾向がますます強まってきているのは、皮肉なことだと言わざるを得ない。(抜粋)

と書いている。


関連図書:John Stevens, The Way of Judo: A Portrait of Jigoro Kano and His Students, 2013 
     庭野吉弘著『日本英学史叙説 – 英語の受容から教育へ』、研究社、2008
     嘉納治五郎生誕一五〇周年記念出版委員会編、『気概と行動の教育者嘉納治五郎』、2011
     斎藤兆史著『英語達人塾 極めるための独習法指南』中央公論新社(中公新書)、2003
     斎藤兆史著『日本人と英語 – もうひとつの英語百年史』研究社、2007 

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