党派の始まり(その2)
上村 剛 『アメリカ革命』 より

Reading Journal 2nd

『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5章 党派の始まり ― 一七八九~一八〇〇年 (その2)

今日のところは「第5章 党派の始まり」の“その2”である。“その1”では、フランス革命のような国際情勢や新聞や世論の発達のような国内情勢を受けて、しだいにフェデラリストリパブリカンという、党派に分かれていく過程を追った。今日のところ“後半”では、さら各派がイギリス派フランス派に分かれて争う様子やウイスキー暴動などの影響などが説明される。そして次回“その3”では、先住民との対立と近年の研究による「アメリカ帝国説」を紹介している。それでは読み始めよう。

中立宣言と二つの党派の思惑

フランス革命などが契機として発生した党派(”その1”参照)の対立は、国際情勢の変化によってさらに激化する。

一つは、フランス植民地のサンドマング(現在のハイチ)における黒人奴隷の蜂起である。この反乱は、アメリカ外交の重要問題となった。

そして、もう一つは、ルイ一六世の処刑である。これ以降イギリスやオーストリアなどのヨーロッパ各国は、フランスに対して同盟を構築し、戦争へと突入した。

これに対して、ワシントンは中立を宣言する。アメリカにはフランスに味方する心情の人や意見が多かったが、ワシントンは、英仏の超大国のどちらかに加担することで、欧州情勢に巻き込まれるのを避けるため中立することにした。

しかし、ここでそもそもワシントンにその権限があるかが、問題となった。なぜならば、外交権は大統領にあるが、交戦の権利は議会にあったからである。ここでハミルトンは、外交権はその性質上執行権であり、中立宣言も執行権の行使だから大統領が行うべきであると訴えた。しかし、マディソンが中立するというのは、開戦しないというのと同義だから、議会の権利の侵害に当たると主張した。

この議論は、結局ハミルトンの憲法解釈が認められ、列挙されていない外交的権力は大統領に残されていると解釈し、中立宣言が認められた

しかしここでもイギリスを支援したいフェデラリスト(ハミルトン側)と、フランスを支援したいリパブリカン(マディソン側)という二つの党派の思惑は明らかだった。(抜粋)

対英強硬論とジェイ条約

ワシントンの中立宣言には、フランスもイギリスも不満を覚えた。

イギリスは、アメリカを自国の敵と認識し、カリブ海フランス領植民地と行き来するアメリカ船を拿捕した。また、英領カナダからアメリカ北西部に侵入し、先住民に武器を与えてアメリカの入植者を襲わせる。さらに、税金を逃れて北西部に異動してきたアメリカ人を自国領のカナダに引き入れた。

このようなイギリスの対米政策は、新生国家アメリカを弱体化させ、惨めな思いを味わわせることで、自国に復帰させるための策略だったと考えられている。(抜粋)

このようなイギリスの行動によりアメリカには対英強硬論を主張するものも現れる。しかし、軍事力の差は明白であったため、おいそれとは反発できなかった。

そのため、特使としてジョン・ジョイを派遣して、英米間の条約(ジョイ条約)が締結された。これは、アメリカの北西部の領土が確定し、英軍が撤退、イギリスは、アメリカからの輸入品の関税を自由に課すことができるが、アメリカ側が課す関税については、一二年の間制限を加える、という内容だった。この条約はジョイが可能な限りの譲歩をイギリスから引き出したと評価される。

しかし国内では通商上不利な条約を締結することに対して、ジョイやワシントンは批判された

ここで、連邦下院がジョイ条約は違憲だと批判する。憲法では、「大統領は、上院の助言と承認を得て、条約を締結する県店を有する」となっているので、下院は無関係に思えるが、しかし下院は通商と課税の決定権は立法の範囲なので、条約の内容に従って下院が新たなルールを作ることに疑問が持ち上がった。

そして、リパブリカンのエドワード・リヴィングストンは、政権に対してジョイ条約の締結過程がわかる外交文書の公開を要求する。

政権がそれは危険であると拒否すると、大統領が立法権を事実上持つことは違憲であり、人民の意思を反映する下院が締結権を持たないのはおかしいと非難が続いた。

これに対して、フェデラリスト側は、「憲法こそが人民の意思である」として憲法至上性を根拠に批判を押さえた。

ここで著者は、この一連の流れは、出来たばかりの憲法が、政争のなかでその地位を高めていく過程であると指摘している。さらに、ジョイ条約は、アメリカがイギリスと対等な国家間の条約という意味でもアメリカにとって大きな前進だったとしている。

スペインもイギリスとアメリカが接近するのを恐れ、宥和ゆうわ的な条約を結び、ミシシッピ川の航行権の独占を放棄する。

ウイスキー反乱

対外関係の悪化と同時並行で、国内政治も混乱もワシントン政権への反発を強めた。ワシントンのウイスキーへの課税ココ参照)は、農民に大打撃を与えた。

当時、内陸部では、海港への麦やとうもろこしの運搬は、長時間に及ぶため困難だった。そのため内陸部の農民は収益を上げるためウイスキーを生産した。そのウイスキーへの課税は内陸部の農民を直撃した。ワシントンやハミルトンは強硬手段に訴えることを避け、しばらく様子見をつづけた。

しかし、新たな徴税のために締め付けを強化したことで、農民の抵抗は加速し、ペンシルバニア西部では民主共和協会の運動もあり、ワシントン政権の反発が強まった。そして納税拒否、暴力沙汰が頻発し、ピッツバーグ付近にあった、連邦徴税官ジョン・ネヴィル将軍の自宅を武装した農民が包囲して銃撃戦となった。それに対して、ワシントンはハミルトンを指揮官に民兵軍一万以上を投入してほぼ無血で反乱軍を解散させた。首謀者も恩赦で無罪放免とし、政府への批判も回避した。

また、このあとハミルトンは財務長官を辞任するが、フェデラリスト政治家の中心として影響力を行使する。

ワシントンの退任とアダムズ政権

一七九六年ワシントンが、二期八年を節目に大統領を辞することを表明する。これより、大統領が二期八年を超えて努めないことが慣例となる。ワシントンは、離任の声明で、北部と南部、大西洋岸と西部といった地域別の党派によって合衆国は分裂してはならない、それを防ぐために共通の利益を守ることが出来る連邦憲法を採択したのではないか、と訴えた。

後任の大統領には、ジョン・アダムズがジェファソンを破って就任した。アダムズ政権ではジョイ条約により悪化したフランスとの関係が問題となる。フランスは、アメリカがジョイ条約を通じてイギリスと距離を縮めたことに反発し、私掠船によってアメリカ商戦の拿捕を始める。これに対しアメリカは、海軍力の強化で対抗する。この二年間に及ぶ闘いは、公的には戦争と言えないため、疑似戦争と呼ばれている。

この対仏感情の悪化を背景にして、フェデラリスト「外国人・治安諸法」を制定した。この結果、民主共和協会の新聞を発行するジャーナリストが治安の悪化を促したとし逮捕される事件が相次いだ。

これに対して、リパブリカン側は、マディソンを中心として、連邦と州の関係を問い直すことで対抗する。この「外国人・治安維持法」を念頭に、連邦の制定した法律が連邦憲法に反する場合は、州は拒否できると反論した。

このようにフェデラリストとリパブリカンは対立したが、フランス国内でナポレオンが政治権力を掌握すると風向きが変わり、フランスが北中米での勢力を拡大したいとアメリカとの協力を望んだため条約が締結された。

以上のようにアダムズ政権はイギリスに近い立場のフェデラリストによって運営されていたため、フランスとの緊張関係が強いられたわけだが、続くジェファソン政権が誕生すると状況は変化することになる。(抜粋)

ここで、「フェデラリスト」と「リパブリカン」という二つの党派が争ったのだが、・・・どっちがどっちか意見が分からなくなったので、まとめてみよう!(つくジー)

フェデラリストリパブリカン
ハミルトン、アダムズマディソン、ジェファソン
イギリス寄りフランス寄り
商業の発展農業重視
民主政に懐疑的(君主制のような強い執行権を望む)民主政に肯定的(人民の世論を重視)
中立宣言に賛成中立宣言に反対
ジョイ条約を制定ジョイ条約を非難
「外国人・治安維持法」を制定「外国人・治安維持法」に反発

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