『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第5章 党派の始まり ― 一七八九~一八〇〇年 (その1)
今日から「第5章 党派の始まり」に入る。フランス革命が始まるとフランス革命の評価についての意見が分かれ、次第にマディソンが中心の「リパブリカン」とハミルトンが中心の「フェデラリスト」の二つの党派に分かれた。第5章では、このような党派の出現を当時の政治情勢や社会情勢と共に説明している。
第5章は“その1”、“その2”、“その3”の二つに分けてまとめることにする。それでは読み始めよう。
フランス革命と党派の始まり
ワシントンは、単一の執行権という状況のため、補佐役を必要としていた。そこで、連邦最高裁判事のジェイムズ・ウィルソンに助言を要請した。しかし、裁判官の任務は、司法権の行使に限定され、大統領に対する助言という執行権は連邦憲法に定められている権力からの逸脱だという理由で断られる。
結局、ワシントンは大統領府内に自分の右腕となる政治家を囲い込んだ。そしてその政権こそ、財務長官ハミルトン、副大統領アダムズらフェデラリスト、国務長官ジェファソン、マディソンらパブリカンという党派の対立を生んだ政権となる。
この党派の対立の背景には、国際情勢の変化と国内政治における連邦権力の強化の問題があった。
まず国際情勢の変化としては、フランス革命の勃発がある。この大事件に対して多くの政治家は賛成か反対かの声を上げなければならなかった。一七九〇年にイギリスでエドマンド・パークが『フランス革命の省察』を著し、フランス革命を非難すると、トマス・ペインが『人間の権利』というポークへの反論を出版した。
そして、ジェファソンは、フランス革命の大義に賛同の意を示す。さらにジョン・アダムズが、自分とは反対に身分制を擁護していると知ると、ペインの『人間の権利』をフィラデルフィアの出版社に送付し、アダムズの悪口を書いて送った。すると、出版社は『人間の権利』をアメリカで出版したうえ、アダムズに対する悪口もまえがきで公開してしまった。
激怒したのはアダムズである。こうして、パリとロンドンで母国のために奔走した二人の建国者は、袂を分かつことになってしまった。 (抜粋)
この問題の背景には、フランス革命のような大事件にどのように評価するかという問題と小国アメリカが大国イギリスとフランスのどちらにつくかという政治問題があった。
政治権力の強化 — 農業から商業へ
党派の対立のもう一つの背景は、連邦政府の強大な権力をどこまで行使するかという問題である。
これには、ワシントンが右腕として頼りにしていたハミルトンの経済政策が議論を引き起こした。当時のアメリカの基盤産業は農業だったが、ハミルトンは商業化を推進し、国家の経済発展を農業だけでなく商人が富の余剰を生み出すことにより発展することにより実現しようとした。当時は経済学が勃興した時期であり、交易によりお互いの人が利益をあげることにより、血をともなう争いがなくなり平和になる、という考え方に裏打ちされていた。
そのためにハミルトンは公債を利用しようとし、合衆国銀行をつくる法案を提出した。しかし、公債の発行により実体があるかないかわからないお金を産出することの嫌悪感や、過度の贅沢が倫理的退廃につながるという警戒感から、反対があった。
反対派のうち最も有名なのはジェファソンである。反対派は、商業国家を目指すのではなく、地に足をつけて農作物を作り続けるべきだという考えかたであり、南部の人に多く支持された。
また、マディソンが、農業重視の考えを背景に合衆国銀行に反対した。連邦憲法は、銀行の創設まで認めていないという考えかたであった。その解釈論に、ゲリーが反撃した。そのような連邦権力拡大を支持する人の後押しもあり、ハミルトンの政策は実行に移される。さらに、ワシントン政権は、戦時中の公債返還費と公務運営の費用のために、国内酒、特にウイスキーに税金を課す。
このような連邦政府の積極的な財政政策をジェファソンは快く思わなかった。ジェファソンはマディソンと接近し、反ハミルトンの政治的党派の形成に奔走する。
これはかつての『フェデラリスト』の共著者同士、マディソンとハミルトンの仲も切り裂いた。ハミルトンはのちにマディソンとの対立を、単に政治的なものではなく、「原理と原理の戦い」だと捉えた。越えられない壁が認識されつつあった。(抜粋)
世論と新聞の発達
ここで、ハミルトンとマディソンの原理は、
- ハミルトン:人々が多数派と少数派に分裂し抗争することを懸念。イギリスの君主制のような強い執行権力を望む。
- マディソン:人民主権が「世論」として表れるのを重視。世論は日々の共同体の理性的な議論を通じて形成されるとする。
というものであった。
ハミルトンの立場は、少数の知的エリートの統治であり、世論は重要でなかった。そのような誰が統治の主体になるかも党派の形成を促した。
このようなマディソンの世論を強調する意見は、連邦憲法の出版の自由と新聞の発展という背景がある。連邦という大きな領土での世論の形成には、新聞の流通の拡大が大きな役割を果たし、同時に多くの政治的主体が現れた。
このような新聞や世論の発達は、アメリカ合衆国におけるある一つの政治的原理の肯定的な評価に寄与した。民主政(デモクラシー)である。(抜粋)
民主政が肯定的になる
ここで著者は、合衆国建国当時、民主政が必ずしも肯定的に捉えられていたわけではないと、注意している。このころ、多くの人の政治参加は、アナーキーに至ると否定的に捉えられていた。
しかし、民主政の見方は徐々に肯定的なものに変化してくる。ペインは『人間の権利』の続編の第二部(一七九二年)で、アメリカ政府を「民主政のうえに基礎付づけられた代議制」と捉えている。そして、そのころアメリカ国内でフランス革命の大義を支持し、君主政や貴族政を否定的に捉える協会が各地に結成された。彼らは、民主政を肯定的に捉え、自分たちこそ「憲法の真の原理とアメリカ革命のもともとの意図」にのっとった存在であると主張した。
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