『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
3章 第一次世界大戦 パリ講和会議で批判された日本
前節につづいて本節では、第一次世界大戦後に現れた危機感の2つ目の要因、パリ講和会議で日本がパリ講和会議で直面する中国とアメリカからの批判とその衝撃について。(危機感の3つの要因についてはココ参照)
第一次世界大戦後の一九一九年にパリ講和会議がありヴェルサイユ講和条約が締結される。
ここで日本は、山東問題で非難を浴びた。
日本は、一九一四年八月、「中国に還付するの目的をもって」といいながら開戦したのに、一五年五月、二十一カ条要求を袁世凱(えんせいがい)につきつけて、山東に関する条約というものを無理矢理でっちあげた、と。中国に返還するためといって、ドイツから奪ったのに、結局、日本は自分のものにしてしまったとの、世界および中国から非難が激しかったことがわかります。(抜粋)
講和会議で議長を務めていたアメリカ大統領ウィルソンは、大戦中から戦後の構想を考えていた。ウィルソンは、帝政ロシアがレーニン・トロツキーの率いるボリシェビキに倒されるなどの、世界情勢を目にして、連合国の戦争目的をあらためて理想化する必要があると考えた。その理想を「十四カ条」にまとめてアメリカ議会に提出する。
この条文のなかで一番有名なのは、民族自決主義であった。しかし、ウィルソンが念頭に置いた地域は、ポーランド、ベルギー、ルーマニア、セルビアなどの限定した地域だけだったが、これが、今後世界各地の植民地の人々に大きな希望を抱かせることになった。
実のところウィルソンは、英仏などが第一次世界大戦前に獲得した植民地に対しては、民族自決の原則を適用しようとは考えていませんでした。・・・中略・・・ただ、ウィルソンとともにアメリカ外交を担っていたランシング国務長官(日本の外務大臣にあたる職)が、一九一八年十二月三十日の日記に「この宣言はダイナマイトを積んでいる。決して実現されない希望を呼び起こす」と書いたように、世界各地の植民地の人々に大きな希望を抱かせることになりました。(抜粋)
そして、ちょうど講和会議が行われている時に、日本統治下の朝鮮で、このような希望の元に三・一独立運動が起こった。そしてこの日本の統治について講和会議、さらにはアメリカ議会で議論となった。
日本の朝鮮支配は他の列強などの植民地支配にくらべても残酷なのではないかということが、パリ講和会議やワシントンの上院で議論されはじめるのです。このような事件を起こした日本が、新たに委任統治領などを持ってよいのか、という議論もなされます。(抜粋)
次節にでは、パリ講和会議の様子を見ながら、どうしてこのような議論がアメリカの議会で取り上げられるかを考察する。
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