『文章のみがき方』 辰濃和男 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 文章修行のために 7 自分と向き合う
「私はこうして文章を書いていますが、去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう」(三島由紀夫)(抜粋)
冒頭の三島の言葉を受けて著者も、おおむね去年書いた文章を読むと不満であると言っている。しかし
「それでもなおかつ現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切なのであります」(抜粋)
と主張し、いま書いている文章は十分納得できるものでありたいと思って机に向かっていると言っている。
三島由紀夫は「自分の文章はすべて不満だ」と書き、詩人の堀口大学は、自分を「駄馬」といい、向田邦子が、自分の文章に「ひけ目」を感じている。しかし、その「不満」「劣等感」「ひけ目」こそが、新しいものを生むエネルギーになっている。そう言う意味で、
自分の文章を読み直して「なんて下手くそなだろう」と思うのはそう悪い事ではない。いや、よりよい文章を書くためにはむしろ必要なことなのだ、とも思います。(抜粋)
画家の熊谷守一は、自分の本当の姿に向き合うことの大切さを説いている。熊谷は「下品の人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい」と言っている。これは、背伸びをしたり、利口ぶったり、上品ぶったりしないで、自分のありのままを表現しなさい、という意味である。
文章も同じです。一見、上手そうに見える文章が、何回も読んでいるうちに「どうも心を打つものが希薄だ」と思えてくる場合があります。一読したところ、すきがあり、稚拙なところのある文章が、読み直しているうちに次第に筆者の思いがじんわりと伝わって、いい文章に思えてくることもあります。(抜粋)
結局は「内面」の深さの問題である。
技巧的なものにせよ自分の観察の不十分さやもののみる眼の浅さにせよ、自分の文章の欠陥に気づいたら直せばよい。文章の欠陥に気づくためには、しっかり自分に向き合う必要がある。
自分の文章の欠陥に気づかず、他人に指摘されることもある。そのような時は、人の批判に耳を傾け、自分と向き合うことが大切である。
反対に人の書いた文章を批評することも文章修行の一つである。その時は、その文章の特徴を正確に捉えるようにする必要がある。
書かれた内容を積極的に肯定し、評価すること、そういう読み方をすれば、書き手のこころが少しは見えてくるのではないでしょうか。(抜粋)
関連図書:
三島由紀夫(著)『文章読本』、中央公論新社(中公文庫)、1973年
三好達治(著)『三好達治随筆集』、岩波書店(岩波文庫)、1990年
熊谷守一(著)『へたも絵のうち』、日本経済新聞社、1971年
小林秀雄(著)『考えるヒント』、文藝春秋、1964年
IV 文章修行のために 8 そっけなさを考える
「私たちがこれ(食器類)を愛用しているのは一種の素気無さです。これは邪魔にならないデザインです。そのうえに置かれるであろう食物、注がれるであろう液体をひきたてようとしているデザインです。そうではなくて、食器類にかぎらず、そのものの役割を無視してデザインだけがえばっているような実用品が多すぎるとおもいませんか」(山口瞳)(抜粋)
著者は、「文章もまた、そっけないものがあっていい」という自戒の意味で山口は冒頭の言葉を書いたのではないかと言っている。著者は、「缶蹴り」という山口の短編を例にして「そっけない」文章について説明している。
さまざまな形容詞を取り去った、そっけない文章だからこそ、それがかえって読み手の想像力を呼び起こす。文章という器のデザインがそっけないものであるからこそ、読み手は器に盛られる料理の色、味、香りを十分にたのしむことができるのではないでしょうか。(抜粋)
この後、著者は画家の守屋守一と森鴎外の文章を使って「そっけない」文章について説明している。
関連図書:
山口瞳(著)『人生論手帖』、河出書房新社、2004年
山口瞳(著)『愛って何?』、新潮社(新潮文庫)、1971年
守屋守一(著)『へたも絵のうち』、日本経済新聞社、1971年
森鴎外(著)「寒山拾得」『現代日本文学全集・森鴎外』、筑摩書房、1953年
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