『日本語の古典』 山口 仲美 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 庶民が楽しむ言葉の世界ーーー江戸時代 24 おくのほそ道ー ー句を際立たせる
紀行文が苦手な著者は、有名な松尾芭蕉の『おくの細道』も本当の良さが確信できなかった。
でも、後に『おくの細道』の文章の巧みさを自分なりに会得した瞬間が訪れました。それは、どんな時だったのだ? そして、それは、どんな文章の趣向だったのか? ここで述べておきたい事柄です。(抜粋)
では読み始めよう。
『おくの細道』は、元禄二年(一六八九)の春から五ヶ月かけて奥羽・北陸の歌枕・名所・旧跡の地を訪れ、その感慨を散文と俳句で記した俳諧紀行文である。その始まりは、
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也(=月日は永遠に旅を続ける旅人であり、来ては去り去っては来る年もまた旅人である)」。(抜粋)
で始まる。これは、李白の
「夫れ天地は万物の逆旅(=宿屋)、光陰は百代の過客(=旅人)なり」(抜粋)
を踏まえ、人生を旅と見る芭蕉の人生観を表わしている。
立石寺と蝉の声の句
著者は、山形大学で日本語学会があった時に、『おくの細道』に出てくる「立石寺(今は「りっしゃくじ」)」に立ち寄った。そして、著者はハイヒールのまま長い石段を登り始めた。なんとか、芭蕉翁供養碑のある「せみ塚」までたどり着く。
碑には、『おくのほそ道』の立石寺の章段で詠んだ。「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」という俳句が刻んである。それを眺めているうちに、ふと気になりだした。「岩にしみ入」ように感じられる蝉の声とは、どんな声だったのか?(抜粋)
芭蕉の句の蝉は、アブラゼミと言ったのは歌人斎藤茂吉であった。そしてそれを否定してニイニイゼミの声だとドイツ文学者で評論家の小宮豊隆が主張(『芭蕉の研究』)し論争となった。結局、斎藤茂吉の現地調査によりニイニイゼミであることがわかり、茂吉はアブラゼミ説を撤回した。
芭蕉の聞いた蝉の声は一匹なのか、複数なのかについては、国文学者の麻生磯次が「満山蝉時雨というような騒々しいものではなかったであろう」と言っている(『「奥の細道」を読む』)。著者は、かといって一匹でもあるないとし、やはり相当数の蝉が泣いていたのではないかとしている。そして、
芭蕉と同じ場所に立ってみると、紀行文の一語一語が現実味を帯びて迫ってくる。紀行文は、その土地に自ら赴いてみた時に最も輝きを増すんですね。(抜粋)
と言っている。
芭蕉の文章の構成の巧みさ
著者は、この後、奥の院まで行こうと考える。しかし、その道のりは実際には大変で、ハイヒールの著者は、あきらめてしまう。しかし、この部分を『おくのほそ道』では七〇字余りで記されている。
岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を排し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。(=岩の上にさらに岩が重なって山をなしており、生い茂る松や檜も老木で、土や石も古びて苔が滑らかににおおっている。岩の上に建てられたお堂は、どれも扉が閉まってあって、物音一つ聞こえない。崖のふもとをめぐり、岩の上を這うようにして、仏殿に参拝したが、良い風景がひっそりと静まり返っていて、心が澄み渡っていくおだけがわかる。
そして、この直後に
閑さや 岩にしみ入 蝉の声
これで立石寺の章段は終わりです。(抜粋)
芭蕉は、最後の「閑さや」の句を、際立たせるために、奥の院への道を簡約している。それが、『おくのほそ道』の文章構成の巧みさである。
そして、文章によりクローズアップされる俳句も見事なものでなければならない。この俳句も芭蕉は何度も推敲を重ね、一語たりとも他の語に置き換えることを許さない一句となっている。
散文が俳句に収斂していくように構成された文章。散文部分は、俳句に調和した、きりりとした男性的な漢文訓読調で記されている。俳句は、重責を全うしてゆるぎない風格をもって、全体を引き締めている。これが、俳文『おくのほそ道』の魅力だったのです。(抜粋)
関連図書:
小宮豊隆(著)『芭蕉の研究』
麻生磯次(著)『「奥の細道」を読む: 旅あるき』(1)(2)(3)(4)、明治書院、2003年
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