「平 明(2)」
辰濃和男『文章の書き方』より

Reading Journal 2nd

『文章の書き方』辰濃 和男著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

<平均遊具品>の巻 — 平 明(2) 

前章の最後に、文章がちからをもつかどうかは、「なんとしても相手に伝えたい情熱次第である」と言っている。この章では、いくつかの例を用いてこれを掘り下げている。
このなんとしても相手に伝えたいと思えば、自然に「相手の立場に立つ」という心の営みがうまれる。それが平明な文の基本である。
このことを、著者は沖縄の古武道の大家である喜納昌盛(喜納将清)さんの話で解説する。戦時中、村会議員だった喜納さんは、米軍の上陸をまえに地区の人々を村にとどまらせ、みんなで壕に避難した。

銃を構えたアメリカ兵の姿が見えてくる。先生は意を決し、ひとり白旗をかかげて壕をでます。殺気立った兵士に囲まれ、銃を突きつけられる。そのとき、先生はこう声をふりしぼったんです。
「ユー、アメリカ、ジェントルマン。ミー、オキナワ、クリスチャン」
叫び声を聞いた米兵たちの顔からふと殺意が消えます。構えていた銃をおろす。
・・・・(中略)・・・
「守りの極意ですね」
その話を喜納さんに聞いたとき、私はそう言いました。「ユー、アメリカ、ジェントルマン」で相手の殺意を解く。「ミー・オキナワ、クリスチャン」で相手の警戒心を解く。アメリカ兵に、自分たちは戦闘要員ではないことをなんとか伝えなければならぬ。その一念がこの言葉を生んだのです。(抜粋)

平明な文章を書くには、「このことを伝えたい」という強い気持ちがあること。そして、わかってもらうためには、「読む人の側に立つ」ことが必要である。これは簡単なように見えるがなかなかできることではない。

世阿弥の『花鏡(かきょう)』に「離見(りけん)の見(けん)」という言葉があります。観客が舞台上の自分の姿を見る目、見る心で、自分の演技を見ると、いう意味ですしょうか。
「離見の見にて見る所は、則、見所(けんじょ)同心の見なり」と世阿弥は書いています。見物人の目で、自分の演技を見ることです。この離見の見を磨くために、世阿弥はたぶん大変なエネルギーを使ったことでしょう。読む人の目で自分の文章を見る、自分の文章を突き放して他人の目で見る、という営みも、この離見の見と同じことではないでしょうか。
この営みを自分のものにしてゆくには、たゆまぬ修行が必要なのです。(抜粋)

引用部:世阿弥 (著)『日本思想体系㉔』・世阿弥「花鏡」岩波書店  1974

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