7『日本語の古典』 山口 仲美 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
III 乱世を生きた人は語るーーー鎌倉・室町時代 17 とはずがたりーー愛欲に生きた人
今日のところは『とはずがたり』である。この物語は、宮廷内の赤裸々な愛欲生活を描いたノンフィクションの告白日記である。鎌倉時代の作品だが、宮廷内の実情をあまりにも生々しく描いているためか、長い間存在が知られていなかっという。昭和一五年(一九四〇)に発見され『国語と国文学』という学会誌に存在が報告された。そして、昭和二五年(一九五〇)に『図書寮所蔵桂宮本叢書』の一冊に加えられ、大騒ぎになった。では、読み始めよう
『とわずがたり』の作者は、大納言久我雅忠の娘である。二条と呼ばれた彼女は、後深草院の後宮に入る。五巻からなり、前の三巻が、後深草院の御所を舞台にした宮廷編、後の二巻が出家して諸国を修行して回った紀行編となる。
彼女が後草深院の愛人として後宮に迎えられてから情を交わした相手は、
- 「雪の曙」=西園寺実兼(後深草院の側近、初恋の人)
- 「有明の月」=性助法親王(後深草院の異母弟、僧侶)
- 「近衛の大殿」=関白の鷹司兼平(かなり年配)
- 「亀山院」(後深草院の実弟、後深草院と対立)
である。
彼女は後深草院以外の男性との情事に溺れ、愛欲の苦悩と味わう人生を歩む。
ここで、著者は彼女がどんな性格で、どんな考え方をする人かを探りたいとしている。
「雪の曙」との関係
作者は、一四歳の時に後深草院と作者の父との密約により、後深草院の愛人となる。しかし、作者にはこの時すでに意中の人がいてそれが「雪の曙」である。作者は最初こそ院を拒むが、そのうちに満更でもない気持ちになり、院の子どもを身ごもる。
そして作者の父が院に娘の庇護を頼んで他界してしまう。父の弔問には雪の曙もやってくる。そこから作者と雪の曙の関係が始まる。
四十九日の法事の後に、作者のもとに雪の曙から便りがある。そして、真夜中に雪の曙が訪ねてきて、部屋の中まで入ってきてしまう。作者は、妊娠中の身であることを告げて拒むが、雪の曙は口説き続ける。そして作者は、
「例の心弱さは、いなとも言ひ強り得で居たれば(=いつもの気弱さから嫌とも拒み切れないでいると)」、雪の曙は、寝どこまで入ってきてしまった。「岩木ならぬ心には、身に代へむとまでは思はざりしかども、心の他の新枕は、御夢にや見ゆらむと、いと恐ろし(=岩木でもない私の心には、「この危険な秘め事をわが身と引き換えにしよう」とまでは思わなかったものの、意外な成り行きで新枕を交わしたことは院の御夢に見えるであろうかと思うと、たいそう恐ろしい)」。(抜粋)
と、初恋の人、雪の曙と結ばれてしまう。
ここで著者は、作者は、「院にしられてしまう」ことのみを怖れ、「罪の意識がほとんどない」ことに注意してほしいと指摘している。また、作者の「心弱し」「岩木ならぬ心」といった性格が、今後の様々な男性と情事を持つ素地となっている。
作者は、雪の曙が始終通ってくる事を許した。そして、月が満ちて院の子を無事に出産する。しかし、実家に居続け、雪の曙との密会をつづけていた。そうしていると院からの便りが届く。
「むば玉の 夢にぞ見つる さ夜衣 あらぬ袂を 重ねけりとは(=夜の夢に見たよ、そなたが私以外の男と、さ夜衣の袂を重ね、契りを結んだという夢をね)」。作者はドキッとするが、次のような返事をして「申し紛らかしはべりぬ(=こまかし申しあげました)」。「ひとりのみ 片敷きかぬる 袂には 月の光ぞ 宿り重ねる(=一人きりで寝るのもつらい私の袂には、月の光が重なったのですよ)」。(抜粋)
作者は、ひとり寝であるとしらを切る。
しかし、今度は雪の曙の子を身ごもってしまう。作者は慌てて御所に戻り、院とかかわりを持って、そのための妊娠と見せかけた。そして、出産にはだれも近づけないように工夫して雪の曙一人に介添えさせて産み落とす。雪の曙はその子を連れて帰り、院には死産であったと告げる。
良心の呵責を感じないのか
ここで著者は、作者は「良心の呵責」を感じていないと指摘する。なぜならば良心の呵責を意味する言葉『とわずがたり』には極端に少ないからである。
源氏物語には「心の鬼」という言葉が良心の呵責を表わすが、『とわずがたり』では、わずか1例。しかも、さして深い良心の呵責でない。また、「罪」という言葉は6例あるが、5例まで、「罪がない」であり、後の一例は曙との密会の結果の妊娠を「罪の報い」と述べているところである。妊娠が「罪の報い」とは露見を怖れる言葉であることが見え見えであると著者はいっている。
作者は、院以外の男性との情事を罪と感じることが少ない受け身の女性であった。
- 雪の曙との新枕は、「心の他の新枕」と自分の心ではないとする。
- 「有明の月」に対しては、強引に迫られた。
- 「近衛の大将」との情事は、「我過ごさず(=自分で犯したものでない)」。
- 亀山院に対しては「犯せる罪もそれとなれば(=私自身の犯した罪もこれといってないのだから)」。
と常に受け身で、
これらの男性たちとの情事を「わが咎ならぬ過り(=自分の責任ではない過ち)」と総括しています。(抜粋)
作者は、世間に秘め事が露見することのみを怖れている。
『とわずがたり』には「恐ろし」という言葉が二四回と使われるが、大部分が院や世間に密会が知れることを怖れる気持ちに使っている。そして「そら恐ろし」という言葉も六回使われているが、すべて人目が恐ろしいという意味で使っている。
「そら恐ろし」は、本来、自分の道徳的な罪や過失があって、神の目を意識して天罰を恐れる気持ちを表します。『とわずがたり』の作者は、自己の心の内部で己の良心と葛藤して天罰におののくことは余りありません。だからこそ、スリルに満ちた愛欲の音楽を奏でることができたのです。(抜粋)
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