身延山の暮らし(その5)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 身延山の暮らし(その5)

前回、五章その4とでは、身延山の入ってからの日蓮の暮らしぶりと弘安の役についてであった。弘安の役では、「蒙古軍の再度の来襲の時、日本は元に滅ぼされ」と預言が外れ、逆に批判していた律僧の叡尊の祈禱力の評判が高まった。それは、日蓮いとって失意であった著者は言っている。
今日のところ、五章その5は、身延山での日蓮の体調と日蓮の死についてである。


まず著者は、いくつかの手紙を引用し、日蓮が身延山に入山以来あまり体調が良くなかったことを説明している。

この手紙からわかるように、入山以来、瘦せ病(下痢などの消化器系の病気か)に苦しみ、加齢による体力低下もあり、体調が悪かったようである。文永一一年(一二七四)五月一七日に身延山に入ってから、弘安四年(一二八一)一二月八日に至るまでの九年間一歩も身延山を出なかったというが、厳しい気候の山中での生活は日蓮の健康を日々むしばんでいたのであろう。(抜粋)

弘安四年に一〇けん四面の新房が、波木井実長によて寄進されたが、それも日蓮の体調を心配してのこと考えられる(中尾堯『日蓮』)。

そして弘安五年(一二八二)年に日蓮は身延山を出て、温泉での治療をするため常陸の湯に向かった。常陸くらに波木井氏の所領があるためであると考えられている(宮崎英修『日蓮とその弟子』。日蓮は、馬に乗せられ波木井実長の子弟が守護役に、日興ら弟子が付き添って出発する。そして途中の池上むねなかの屋敷に到着する。

ここで体調の悪い日蓮は日興に代筆させ波木井実長に手紙を書いた。この「波木井殿御報」が日蓮の最後の手紙とされている。

「波木井殿御報」には、以下のことが書かれている。まず、旅中は何事もなく池上に到着できたことや、その間の波木井一族の護衛を喜んでいる。重要なのは、病気なので生死がじょうだと述べ、死を覚悟する心中が述べられている点である。(抜粋)

そして日蓮は、病状が悪化したため池上宗仲の屋敷にとうりゅうすることになる。

死を意識した日蓮は、一〇月八日に六人の本弟子を指名し、後事を頼んだ。にっしょう(六二歳)、にちろう(三八歳)、にっこう(三七歳)、にっこう(三〇歳)、日頂(三一歳)、にち(三三歳)である。それから五日後の一〇月一三日たつの刻(午前八時頃)、日蓮は波乱万丈の生涯を閉じたのである。六一歳であった。その時、大地が六種振動したという(中尾堯『日蓮聖人遷化の後先』)。(抜粋)

この六種振動とは、大地が六通りに揺れ動くことで、釈尊の生涯の節目や釈尊の説法が終わった時、あるいは菩薩が請願を発した時などに起こるずいそうとされ、地涌の上行菩薩の化身とされていた日蓮の入滅にふさわしい瑞相である。

日蓮入滅後、百回忌に合わせて、弟子たちが、順番に身延山に登り墓所を守る(日蓮の霊に仕える)輪番「しゅとうせい」が定められた。以後六人の弟子たちを中心に布教がなされた。
この輪番での守塔制は、交通不便な当時は実行困難であり、甲斐・駿河国に円の深い日興が、その門弟と共に身延山に在住し墓守を任される。しかし波木井氏が日向を身延山第二代と定めると、日興は身延山を降り、正応三年(一二九〇)に富士大石寺を興した。以後は、日蓮門流は各地に分散して、発展することになる。


関連図書:
中尾堯(著)『日蓮』、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、2001年
宮崎英修(著)『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年
中尾堯(著)『日蓮聖人遷化の後先』、法華経文化研究所(法華文化研究 33、p.113-132)、2007年

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