『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
2章 日露戦争 日英同盟と清の変化
ここでは、日清戦争から日露戦争までの期間の国際情勢の変化について解説している。
清国がロシアよりの政策をとる中、李鴻章との秘密条約や賠償金の援助の担保などで、ロシアは満州を横断しさらにそこから分岐して遼東半島まで至る鉄道の敷設権と旅順・大連などの租借権を手に入れる(前節)。
ここで一九〇〇年に北清事変が起こる。清国は義和団の乱に乗じて列強に宣戦布告する(北清事変)。ロシアはこれをチャンスと見て黒竜江沿岸を占領してしまう。この時、親露的だった中国国内にロシアへの疑念が生じた。そして、李鴻章も一九〇一年に亡くなる。
ロシアは、義和団の乱から自国の権益を守るためと言って軍隊を送った。その時、中国側と一九〇二年までに段階的に撤兵するとの条約を結んだ。しかし、一向に満州から撤兵しなかった。
イギリスは、ロシアが中国に影響力を持ちすぎることを懸念して、日本に日英同盟協約を持ち掛け調印した。
このとき重要なポイントは、イギリスは、「日本とイギリスは協力しますよ、いいですね」、という態度をロシアに見せることで、ロシア側の態度を改めるのを期待していたのですね。日英同盟が結ばれたからすぐにロシアと敵対して戦争ということにはならない。(抜粋)
最近の研究により日本でも、日英同盟はロシアに対して自制を求める同盟との解釈が主流であったことが分かっている。
1章でもご紹介した坂野潤治教授や京都大学の伊藤之雄先生などの研究で明らかになったことです。坂野先生は「日本国民のかなりの部分と支配層の一部は、日露戦争の直前までは、むしろ厭戦的であった」と述べています。(抜粋)
中国もこのころから開明的な勢力が立憲君主制を目指して改革を進める(戊戌(ぼじゅつ)の変法)。また、中国から日本に多くの留学生が日本に押し寄せた。また日露戦争勃発後であるが、清国を倒そうという革命結社も日本で誕生した。
一九〇三年に開戦に積極的だった東京帝国大学などの七博士が「満州問題に関する七博士の意見書」を出し、さらに参謀本部が「早い開戦のほうが有利」と意見を述べる。しかし、桂首相や元老たちは戦争の前に外交交渉に期待をかけていた。
山県などが最後まで外交交渉に期待をかけていた理由の一つは、日本もお金がないけれども、ロシアもお金がないと知っていたから。・・・中略・・・ロシアはとても戦争をする力がないのではないか、足もとが危ないのではないか、と日本側は見ています。(抜粋)
この時ロシアでは、ペゾブラーゾフ一派が宮廷での権力を掌握する。ロシアは、満州の中東鉄道から遼東半島まで鉄道を分岐して周辺の鉱山をはじめとする産業を興す計画をしていたが、それには膨大なお金がかかる。
このとき、ペゾブラーゾフはうまいことをいって皇帝を説得しました。「鉄道を通すよりも、もっといい方法があります。韓国をとっておけば、お金がかからないじゃないですか、日本なんてヘナチョコですよ」と。(抜粋)
日露戦争がどうして起きたかの質問についての答えは時代とともに変化するが、朝鮮半島とその戦略的な安全保障の観点から日本とロシアは戦ったと説明ができる。また、どちらが戦争をやる気があったかについては、日本よりもロシアが積極的だった。
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