『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
2章 日露戦争 日清戦争後
第2章は日露戦争について。この節では、まず日露戦争の意義について概観した後、日露戦争前の情勢について解説している。
最初に日露戦争の意義について。著者はまず帝国時代の戦争の「効用」について話を始めた。日露戦争後に日本は欧米をはじめ大国に大使館を置ける国となり目に見える形で国の格が上がった。不平等条約については、日清戦争前の日英通商航海条約で、領事裁判権の撤廃と完全率の引き上げ、相互平等の最恵国待遇などは実現したが、関税自主権は日露戦争後に達成された。
このような点から見れば、日清戦争の結果、アジアからの独立がまず達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立も達成された、ということができるかもしれません。(抜粋)
マーク・ピーティーは、著書『植民地』の中で、日本の為政者の間は、戦略的思考とか、安全保障観が一致していたと書いているように、不平等条約への考え方が一致していた。
ここで問題になるのは、朝鮮半島の重要性いう問題で、朝鮮半島を第三国に占領されないようにいうシュタインの警告がまた日本とロシア間で問題になってくる。
日露戦争によって不平等条約の改正などが達成れるわけですが、戦争の結果していちばん大きいのは戦争の五年後の一九一〇(明治四十三)年、日本が韓国を併合、植民地してしまったことです。(抜粋)
日露戦争は、二十万の犠牲者と二十億の資金という大きな犠牲を伴った。この後、昭和初期まで「二十万の犠牲者と二十億の金を支出して、満州国を獲得した」という言い方をするようになる。
満州事変の根っこのところに、日露戦争の記憶をめぐる日中間の戦いがあったということだけ頭に入れておいてください。日露戦争を学ぶ意味は、昭和の戦争の始まりを考えることだからです。(抜粋)
ここより日清戦争後の情勢の話に移る。
日清戦争が終わった時、日本がロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって遼東半島を返す事態になった。このことにより、朝鮮や清国がロシアよりの姿勢をとる。
朝鮮では、日本に不満を持つ勢力が閔妃(びんひ)の元に集まった。これに驚いた日本は閔妃を暗殺して日本側と共に改革をしようとする人々を政権につけた。しかし、新露派の人は、国王の高宗(こうそう)をロシア公使館に避難させロシアの威力を背景に親露は政権を作ってしまう。
っということで、日清戦争の勝利で、朝鮮国内に日本の圧倒的な優位が確立されたかに見えたのは一瞬で、その後につづいた事態は、韓国の、近代国家への模索と、日本とロシアが韓国をめぐって均衡しているという状態です。(抜粋)
一方、清国もロシアに接近をはかる。ロシアは清国の政治の中心にいた李鴻章をニコライ二世の戴冠式に招待した。この李鴻章の訪露をきっかけに中国とロシアは「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結ぶ。この条約ではさらに満州を横断し裏地をストックに至る中東鉄道の敷設権をロシアとフランスの銀行に与える条約も締結された。さらにロシアは、清国が日本に支払った賠償金援助の担保とて、旅順・大連二十五年の租借権と満州を横断する中東鉄道から分岐して遼東半島の南端、旅順・大連への中東鉄道南支線の敷設権まで獲得する。
これにより、シュタインの警告が現実になったことになる。
朝鮮半島の東ではないけれども、遼東半島の南に凍らない港を持つことができてしまう、つまり、極東の海に海軍を興すことができてしまう。鉄道敷設に関して、中国とロシアの間で九六年と九八年の二度にわたっての結ばれた条約は、日本にとって悪夢を見ているようなものだったに違いありません。(抜粋)
関連書:マーク・ピーティー(著)『植民地―20世紀日本帝国50年の興亡』慈学社出版 2012年
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