「言葉を」を託す (後半)
若松英輔、小友聡『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』より

Reading Journal 2nd

『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 「言葉を」を託す (後半)おわりに

今日は最終章の後半である。ここでは、まず、「ダニエル書」の黙示し思想と「コヘレトの言葉」の関係が示され、最後に「コヘレトの言葉」最終章のメッセージについて書かれている。その後に若松英輔のあとがきがある。


コヘレトは、「やがて何が起こるのかを知る者は一人もいない」「確かに、何か起こるかを / 誰が人に告げることができるだろう」のように未来は知りえないと主張している。しかし旧約聖書には逆のことを主張する書もある。それが「ダニエル書」である。

「ダニエル書」は「黙示文学」といい、黙示つまり「隠されていたものが顕わになる」ことがテーマで、未来が知りえるもの(啓示)として描かれている。そして、最後は復活の予告、終わりの日に塵から人間が蘇ると予告して締めくられている。つまり「ダニエル書」では、夢を解き明かすことで、のちに何が起こるのかが明らかになる。これは「コヘレトの言葉」と真逆の思想である。

小友は、コヘレトは「ダニエル書」の存在を知っていたとしている。黙示思想では、来世に価値を置くために現世をどう生きるかは大事なことではなくなってしまう。しかし、コヘレトは現世的に考えるので黙示思想を拒否している、としている。

(小友)コヘレトは現世的に考えます。だから、「終わりがいつ来るかわからない。わからないからこそ、いま、何をなすべきかが大事なんだ」というのです。(抜粋)

そして、大事なことは、「コヘレトの言葉」と「ダニエル書」の二つの相反する書が一つの旧約聖書の中にあるということである。この二つが入っているという緊張関係で考えるということが、旧約聖書を読むうえで最も大事なことである。

次にいよいよ「コヘレトの言葉」の「締めくくり」の言葉についての話に移る。ここでもコヘレトは、「種を蒔く」ことと同様な話をしている。
ここの「知恵ある者の言葉は / 突き棒や打ち込み釘に似ている」という文章について、若松は、「打ち込まれた釘」は目に見えないと同じように、知恵ある者の言葉は、私たちの世界を深いところで支えてくれている、と読めるとしている。

つぎに、「あらゆる隠されたことについて / すべての業を裁かれる」という最後の一文については、小友が次のように解説している。

「裁く」はヘブライ語で「シャーパト」といいます。これは確かに「裁く」とも訳せますが、「神が支配する」と訳したほうがいいと思います。
ですから私はこの最後の一文を、すべての業を神が支配しているのだ、そして神がなさることは始めから終わりまで、人間にはわからないのだ、と読んでいます。コヘレトはそういった不可知論を繰り返し語っています。(抜粋)

そして、だからこそ与えられた自分の人生を最後まで責任を持って生きよとコヘレトは言っているとしている。


ここは、なるほどと思った。文字どおりに解釈すると、「閻魔さまは全部知ってんだよ!舌抜いちゃうよ!」的に読めちゃって、ちょっと残念だけども。でも、「すべての業を神が支配しているのだ、そして神がなさることは始めから終わりまで、人間にはわからないのだ」との意味とすると、なかなか深いですよね(つくジー)


その話を受けて若松は、「生きる」と「生かさせる」の問題についてコヘレトはどのように考えているかと小友に問いかけをする。小友は、「束の間」の時は神から与えられた賜物であり、その「時」がかけがえのないものだと気づいた時、人は神によって生かされていることに気がつくと答えている。

(若松)とても大切な指摘をしていただきました。「生きよう」とするとき、人は、「与えられた」ものに気がつかない。「与えられたもの」すら、獲得したものだと感じる。道が開かれていくのに、自分で切り開いたと思う。そして、「束の間」を忘れ、自分で考えるように生きているのだと思い込むのだと思います。(抜粋)

若松は、ここまでコヘレトの言葉を読んで、今まで私たちが刈り取っている果実は、すべて先人たちが植えてきたものだということだと気がついたと語っている。そして旧約聖書の「詩編」から次の一節を引用する。

涙のうちに種を蒔く者は、
喜びのうちに刈り取る。
種を携え、泣きながら出ていく者は、
束を携え、喜びながら帰って来る。
(第一二六章五~六節、フランシスコ会聖書研究所訳注)(抜粋)

この「涙のうちに種を蒔く者は、 / 喜びのうちに刈り取る。」は、私たちが自分以外の種を蒔くように生きることができたとき、初めて先人からの恩恵を理解できる、自分で何かをしたときに初めて先人からの恩恵を理解できる、ことだとしている。

この言葉は、若松が人生の苦難に直面した時に出会った言葉であり、この言葉を踏まえてコヘレトの言葉を読むと、私たちは人生を「自分」という時間軸で考えがちだが、実際は、多くの先人たちの助けと自分たちの未来への希望から成り立っている。そして、自分が感じている現在だけの問題にしてしまうと見えなくなるものがたくさんある。また、「カイロス」的な世界では、過去、現在、未来が一つになるような豊かな時もある。そのようなことが分かるとしている。また、

(若松)与えられてはいるけれど、気づかないでいるもの。そういうものの中にとても大事なものがある。これが、コヘレトの私たちへの助言だったと改めて思いました。(抜粋)

と語っている。

最後にこの対談の最後に小友は次のように言って締めくくっている。

(小友)眠れない夜を過ごし、朝になっても「今日をどう生きたらいいか」と思い悩んでしまうことが人生にはあるかもしれません。そのとき、「生きよ。種を蒔け。束の間だけれども、生きて種を蒔け。生きれば必ず平和の時がくる」というコヘレトの言葉を思い出してほしい。生きていさえすれば可能性があることを、一人でも多くの方に感じていただけたら、それ以上の喜びはありません。この闇の向こうに明日があります。(抜粋)

おわりに

最後に若松の「おわりに」がある。最初に書いたように「はじめに」は小友が「おわりに」きは若松が担当している。
ここでは、この対談のあと若松と旧約聖書の関係が変わったと書かれている。

一つ目は、毎日、旧約聖書を読むようになったことです。二つ目は、祈りの時間が生活の核になったこと。三つめは、可能な限り夕陽を見るようになったことです。(抜粋)

やっと「コヘレトの言葉」関係の3冊が終わった。
はじめに」にあるようにこの本は「コヘレトの言葉」に関する「NHKこころの時代」の対談の記録である。読み始める前、第1回で「重複を怖れずに、新しい記述を逃さずに、まとめていこうと思う」と書いたように、前に読んだようなことがずらずらと続くのかと思っていた、が以外にも、重要な部分は重複があるものの、若松がいろいろな視点から話題を振って、新しい話題が次々とでてくる。なるほど、テキストの他に対談集を出すのもわかるような気がした。(つくジー)


関連図書:
小友 聡 (著) 『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 日本キリスト教出版局 2019年
小友 聡 (著) 『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』 ‎NHK出版 (NHKこころの時代)、2020年

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