『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 「時」を待つ (その3)
第1回、第2回の話を受けて、今日のところは、人生の不条理と「ヨブ記」の話である。この「ヨブ記」とフランクルの「コペルニクス的転回」については、この対談のテキストである『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』にも詳しく解説されている(ココをリンク)参照)。
まず若松が「死」のような不条理については、「ヨブ記」を読むと理解が深まると問題を提起している。
(若松)「ヨブ記」は、人間では到底理解できない神の計らいの中で、「本当に大事なものは何か」を見いだしていく物語です。そこで、この「ヨブ記」を読み解きながら、不条理について考えていけばよいと思います。(抜粋)
「ヨブ記」は「コヘレトの言葉」と「不条理をどう生きるか」という共通しているテーマを持っている。
「旧約聖書」では、神の前に正しくある者は祝福される。しかし、無垢で神の前で正しく歩むヨブが、次々と苦難にであう。その時、ヨブは「なぜ、自分がこういう目に遭うのか」とうめき、神に問う。しかし神はそれには何も答えず、逆にヨブに問いかける。
知識のないまま言葉を重ね
主の計画を暗くするこの者は誰か。
あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。
あなたに尋ねる、私に答えてみよ。(「ヨブ記第38章2~3節」)(抜粋)
神はヨブの不条理には答えない。そして「答えよ」と逆に神に問い返されたヨブは、「問いかける者」から「答える者」に変わってしまう。
(小友)ここで大切なことは、「神に答えて生きる」ということです。不条理を引き受けて、神に答える。その不条理の意味は、自分で見出して生きるしかないのです。そう悟ったヨブは、自ら方向転換して新しく生きる道を選びました。(抜粋)
これを受けて若松は、
(若松)これは、私たちにもいえることです。私たちは、大切なものは与えられていないと思い込んでいる。でも、実はすでに与えられていて、私たちはそれを発見するだけでいい。「ヨブ記」を読んでいると、そう感じられました。(抜粋)
さらに小友は「ヨブ記」の逆転の発想と同じものが、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の中に書かれていると話を進める。
(小友)その中でフランクルは、人は人生に対して問うべきではない、逆に人は人生から問われているのだといいます。人生から問われているからこそ、自分で答えなくてはならないのだと、考え方を一八〇度転換させています。これをフランクルは本の中で「コペルニクス的転回」といっています。(抜粋)
極限状態を経験したフランクルは「自分の人生に何かを期待できるだろうか」と問うのではなく、むしろ問われているのは自分であり、人はそれに答える責任がある。それが人生であるといっている。
若松は、「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」そしてフランクルの『夜と霧』などを読み込んでいくと書かれている事よりも書けなかったこと、「書くことができないもの」「言葉を超えたもの」も気になると語る。
(若松)そこにある意味は、私たちが日頃接している言語とは違う姿をしています。しかし、言語の姿を超えた意味「コトバ」こそ、人と人の心をつないでいるものです。私たちは頭で考えてしまうと、言語としての言葉が人の心と心をつないでいると思いがちです。しかし言葉にならない「コトバ」こそが、人の心と心をつないでいる。(抜粋)
といっている。
このあたりの議論になると、ちょっとボクにはよくわからない。でも小友が「はじめに」で「「言葉」でなく、「コトバ」に出会わされた経験をしました。若松さんとの対談によって、いつの間にか目に見えない「コトバ」に引き寄せられました。」といっていて、高いレベルで研究している人には、やはり共鳴しているものがあるみたいですね。(つくジー)
ここから、また「時の詩」の話題に戻る。
小友は、「時の詩」は「生まれるに時があり」に始まり「平和の時がある」で終わるが、この「平和の時がある」で締めくくられることが重要であると指摘する。この「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言うが、平和の意味の他に、「バランス」「安定」「補い」「回復」という意味がある。
(小友)人生は不条理である。しかし、これでもかというほど苦しい不条理な経験をしたとしても、人生はそれで終わることはない。必ず「時」が来て人生に調和をもたらすから、生きねばならない。だから決して人生を投げ出してはならない。束の間であっても、与えられた「時」を喜び、そして生きる。「時の詩」からは、このようなメッセージを聴き取ることができると思います。(抜粋)
この話を受けて若松は、「待つ」あるいは「佇む」ということについて言及する。ここで「待つ」とは、ある深い確信の中でその到来を待つ、ことである。
若松は唐木順三の『詩とデカダンス』には、「「待つ」ことによってあなたには、静かな喜びが与えられている」、と書かれているとしている。また、フランクルもこの「待つ」をとても重視していた。そしてコヘレトを読むとこの「待つ」という営みが新しい重みをもって感じられるとしている。
(小友)この「時の詩」は「平和の時」でおわりますが、その「シャローム」はいつやってくるかわからないものです。だからこそ、その「時」を待つんだ。いまの耐えがたい不条理を経験している自分にも、いつかシャロームの「時」が必ず来るんだ。そういう希望を持って、歩みを進めて欲しいですね。(抜粋)
関連図書:
ヴィクトール・E・フランクル(著)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』、みすず書房、1956年
唐木順三(著)『詩とデカダンス 無用者の系譜』中央公論新社 (中公選書 15 唐木順三ライブラリー 2)、2013年
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