『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 「束の間」を生きる (後半)
第二章の前回の部分(前半)では、「空(へベル)」と「風(ルーアハ)」という用語の意味から「コヘレトの言葉」の意味を読み取り、さらに、そのような概念が様々な宗教でも現れていることが語られていた。今日のところ第二章の後半では、コヘレトが人々にどんなメッセージを送っているかについて語られている。
まず、若松が、「コヘレト言葉」には、「幸福とは何か」を問い直してくれるという側面がある、と問題提起する。コヘレトの言葉には「一人より二人のほうが幸せだ」というフレーズがあり、それは共に生きることの大切さ、共生の大切さを説いていると小友が答える。
若松が、家族を喪った経験をもとに「大切な方を喪った方は、死に別れたけれども共にいるという」感覚があり、それは「私はこの世では一人で存在しているけれども、二人で生きている」という感覚があるとしている。そして、
(若松)たとえば、イエス・キリストという人物はいつも私たちと共にいると書かれる方は少なくありません。たとえば、作家の遠藤周作(一九二三~九六)は一貫してそのことを書き続けました。私たちは物理的に一人でいることは空しいと考えがちです。でも「コヘレトの言葉」を深く読んでみると、その奥にある人生の深みで、共に生きることの意味が変わってくるのだと思います。(抜粋)
と語っている。
その後、「共に生きる」というコヘレトの言葉のメッセージについて、コロナ禍での多くの人が物理的に傍にいないという視点からの「つながり」についてコヘレトの言葉を読み解く。そして、コヘレトの言葉は「祈りによってつながる」という視座があるとして、
(若松)「コヘレトの言葉」を一言でいうとしたら、私は「祈りの書」だと答えると思います。ここでいう「祈り」とは、決まった言葉で唱えることでも、自分の思いを語ることでもありません。旧約聖書には、神は人間のうめきを聞き逃さないという言葉が一度ならず出てきますが、私が考えているのは、うめきは神の耳には祈りとして届くということなのです。それは私たちの心よりも一段深いところから出てきている。それを神は見過ごさない、という確信が新約聖書ではパウロの手紙を別にすれば、あまり語られないことです。(抜粋)
と語っている。
次に話は、「コヘレトの言葉」にあらわれる「希望」に話題が移る。
「コヘレトの言葉」にあらわれる「希望」について小友が「共生には希望があります」と言った後、
(小友)さらにいうと、コヘレトの希望は、「へベル」の現実でどう生きるかということについて、方向性を反転させるんです。人生は束の間だから生きる意味が無いのではなく、束の間だからこそ生きる意味がある。そのように反転するのです。そこにコヘレトの希望が見えてくると思います。(抜粋)
そして、この反転について、若松が「コヘレトは何度も、私たちの生とはむしろ、反転することが本性なんだと語っています」と応じた後、さらに小友が次のように語る。
(小友)その反転の契機になるのが「へベル」なんです。人生が束の間であるということに気がついたとき、私たちが向う方向は反転します。・・・・(中略)・・・・・人生が束の間であるお陰で、いまを生かされている紛れもない確からしさがわかります。つまり「へベル」である人生は神が与えた賜物だということに気づかされるんです。(抜粋)
と述べる。実際に小友自身も脳梗塞で倒れた経験をもち、そのこと「自分の命は神から与えられた賜物である」ことに気づかされたといっている。
この後、「希望」についての話は、コヘレトが小さな出来事を喜べとしている話題へ移る。コヘレトは、「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ/あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい」といい、さらに「愛する妻と共に人生を見つめよ」と言っている。
(小友)ぶどう酒を飲むときも、妻と一緒に生きるときも、どれも限られた時間です。だからこそ、いまこのとこを楽しめというコヘレトのメッセージに、私は希望を感じ取ります。(抜粋)
次に、コヘレトの「太陽の下でなされる労苦によって/あなたが人生で受ける分である」という一節に話が移る。この「分」という用語は、ヘブライ語の「へレク」で、「嗣業(しぎょう)」「賜物」と訳することもできる語である。つまり、パンを食べ、ぶどう酒を飲んで楽しむのも、妻と共に歩む人生も、すべて神からの賜物でるということである。われわれは、普通は人生が神からの賜物と思っていない。
(小友)しかし、人生が「へベル」であることに気がつくと、その束の間の人生において、食事が、妻と共に歩む時間が、まさに神が与えた恵みの賜物であることに気づかされる。そういった逆説的な真理がここに書かれています。(抜粋)
コヘレトの言葉には、「生きている犬のほうが死んだ獅子よりも幸せ」でるというフレーズがある。旧約聖書では犬はもっとも雑に扱われる動物で獅子はもっとも権威のある動物とされる。
(小友)ここでのポイントは、死んだ獅子よりも生きている犬のほうが幸せだという逆説である。(抜粋)
わたしたちは、獅子になることを求められる。獅子になることがよいと思っている。しかし、コヘレトは「そうではないんだ」といっている。生きてさえいれば、たとえそれが犬であっても、とっても素晴らしいことなんだと伝えている。
ここで若松は、神の前に立てあらゆるものが犬のようなものである。しかし、その犬を心底大切に神は思っていると語っている。
私たちは、自分が犬のような存在であることを忘れないほうがよい。犬であるとは、人は自分の力だけでは生きていくことが難しい存在であることです。そして、自分の力だけで生きていけないからこそ、誰もが大きな力で守られている。(抜粋)
そして、「コヘレトの言葉」を読むと、いかに生かされているかを発見していくことの重みをかじると語っている。
それを受けて小友は、獅子でなくても犬であっても、「生きる」ということが、ここでの大切なポイントと語る。犬であっても死んではダメなんだという大切なメッセージが込められている。
コヘレトの言葉には、若さも青春も「へベル」であると書かれている。ここで小友は当時の平均寿命を考えると若さも青春も「へベル」である束の間であるということもリアルに響くとして、
(小友)この一節は、残りの人生が十数年しかない人に対する言葉なんです。・・・・・中略・・・・・そうすると、「コヘレトの言葉」は、一〇代や二〇代の若者に対してだけ語っているのではなく、いまの七〇代以上の方々に語っている言葉だとも理解できるのです。(抜粋)
そして若松が年齢について、新たな視点として、
(若松)本当に大きな経験をすると、人は年齢に関係なく人生の後半に入っていくのだと思います。(抜粋)
とし、ローマ時代の哲学者、セリカ(前四頃~六五)の「長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ」(『生の短さについて 他二編 岩波文庫』)という言葉を紹介している。
(若松)私たちは、いつどうなるかわからない存在です。自分は長くいきたいと思っているけれども、長く生きることはできないかもしれない。でも実は、いまの自分が何歳であるかにかかわらず、人は人生の後半に差しかかることがある。(抜粋)
関連図書:セリカ(著)『人生の短さについて 他二編』岩波書店(岩波文庫)2010年
コメント