「価値」が反転する書(後半)
若松英輔、小友聡『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』より

Reading Journal 2nd

『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 「価値」が反転する書 (後半)

前半の議論に引き続き、今日のところ、後半は、旧約聖書の成立の話からである。

旧約聖書が形成されるまでには、長い歴史があるが、その中で一番大きかったのは神の民の「捕囚」の体験であった。イスラエルの民はソロモン王の治世(紀元前九六五年)に最盛期を迎える。しかし、その平和は長く続かずに紀元前五九七年には他国に占領され、紀元前五八七年にはエルサレムが陥落し他国に強制連行されてしまう。

(小友)神の民はすべてを失ってしまいました。しかも、捕囚の地に連れていかれた。その捕囚の地で、彼らは「なぜ自分たち神の民が滅んだのか」「なぜ、こうなったのか」と問わざるを得なくなった。一体、自分たちはこれからどうしたらいいのか。そこで、すべてを失ったのは、自分たちが神との契約を破ったからだと気づかされる。これがきっかけになり、自分たちの民族の歴史を書き残そうとしたのです。そして神が何を自分たちに期待しているのかということを含めて記述が始まるわけです。旧約聖書の編纂は、このようにして始まりました。(抜粋)

ここで、若松が旧約聖書と新約聖書、ユダヤ教とキリスト教の関係についての注釈がある。

(若松)旧約聖書はもともと神との契約を結んだ神の民イスラエル、ユダヤ民族だけの書でした。しかしその後、イエス・キリストの出現によって、神との契約は新しい契約につながっていきます。これが新約聖書です。ですから、キリスト教にとっては、旧約聖書は古い契約の書、新約聖書は新しい契約の書ということになります。だからキリスト教では、旧約と新約を分けて考えるのです。(抜粋)

また、キリスト教では、新約聖書の方に重きを置く傾向があるが、そうではなく両者は分かちがたい関係にあるとしている。

ここで、一旦、話は聖書の話からそれて、「聖典」はどう読まれるのかついて、に発展する。若松は私たち(キリスト教の信者)にとっては、「知る」ことを手放し、「信じる」ことを求めていく書物であるとしている。では、キリスト教の神、ユダヤの神を信じない人たちは聖典を読むかとはできないか、この点に関して若松は、

(若松)もちろん、そんなことはあり得ない。特定の信仰がなくても、「信じる」という心境を重んじる人は多くいます。
ただ、そこで重要なのは、人間がこの世で一番偉い存在だという立場を手放せるかどうかです。「信じる」とは、いろんな定義ができると思うのですが、人間を超えた存在に自分を開いて行こうとする試み、という定義もできます。たとえば、自分を信じる、というときも、深く考えていくと、自分を生かしているはたらきを信じる、ということになるのだと思うのです。(抜粋)

そして、そうであれば聖典は信仰の有無にかかわらず、人生に無くてはならないものであると語っている。


この部分を読んで、前半部で小友と若松が言っていた「生かされている」ということの意味が分かるような気がする。人間が一番偉いという立場を手放すことにより、人間を超えた存在に気づき、自分は「生かされている」ということを悟るって事なんだと思った。よくテレビとかでも「自分は生かされているんだと思いました」みたいなことを聞くけど、正直「ふ~ん」って感じでよくわかってませんでした。(つくジー)


この後、また話題が旧約聖書に移り、旧約聖書の構成と「コヘレトの言葉」の位置づけの話になる。

旧約聖書を全体的にみると、

  • 「歴史書」:「創世記」から「エステル記」まで、時系列的では「過去」のことを述べてい
  • 「文学書(知恵文学)」:「ヨブ記」「詩編」「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」、時系列では「現代」、イスラエルの民はどのように生きていけばよいかを記している。
  • 「預言書」:「イザヤ書」から「マラキ書」、時系列では「未来」、これから先のことを予言している。

に分かれる。

「コヘレトの言葉」は、イスラエルの知恵について書かれた文学書である。その知恵は、世界が見通せなくなった中で生きていく知恵であり、現代に通じる知恵である。

(若松)先ほど、「コヘレトの言葉」にはいろんなものの「逆転」が潜んでいるというお話がありましたが、それまでの私たちの価値観を創造的に崩し、逆転させてくれるような、本当の意味で知恵を与えてくれる。それが「コヘレトの言葉」という知恵文学だと思います。
文学というのは、必ずしも私たちに答えを与えてくれるわけではありません。答えではなく、問いを突きつけてくる。そこが知恵文学の知恵文学たるゆえんではないでしょうか。だからこそ、「いま読むべきもの」として「コヘレトの言葉」のような古い、しかし古びることのない言葉がよみがえってくるのだと思います。(抜粋)

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