『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第6回 それでも種をまく(前半)
今日から最終回の第6回目。前回は、「コヘレトの言葉」は、終わらない世界を前提に、現実的な知恵を語っていた。今日のところ、第6回の前半では、コヘレトの死生観についてさらに追及する。そして次回、後半では、「それでも種を蒔け」というコヘレトの言葉に迫っている。
「コヘレトの言葉」には、ギョッとするようなシニカルな格言が出てくる。「死ぬ日は、生まれた日にまさる」、「生きている人」より「死んだ人」、さらに「生まれていない人」の方が価値がある、などの言葉を読むとコヘレトは神を畏れぬ無神論者のようである。実際に、コヘレトはしばしば信仰否定者ととらえられてきた。
コヘレトはなぜこのような言葉を残したのかについて、著者は、生きる者は死ぬ日を意識せよということだといっている。これは、中世ヨーロッパの「メメント・モリ」(死を覚えよ)という思想につながる。(「メメント・モリ」については、『コヘレトの言葉を読もう』でもふれられている、ココ参照)
「死ぬ日」が「生まれる日よりまさる」のは、その日が来ると意識することによって、人生が終わることをきちんと受け止めるからです。決して、生きるよりも死ぬ方がましだという厭世的な意味ではありません。(抜粋)
さらにコヘレトの死生観を見るために著者は次にことばを引用する。
すべては空である。すべては同じ場所に行く。
すべては塵から成り
すべては塵にかえる。(3章19-20節)(抜粋)
人間は死ぬことにより塵に帰る。そのあとは、「何もない」、「人間は最後に創造主である神の手の中に帰るのだ」というのがコヘレトの考え方である。
しかし、著者は、コヘレトの死生観は、このような死があるからこそ、生が束の間だからこそ、今この時を精一杯生きよという、逆説的なものであるとしている。そして、それを象徴した言葉として次の言葉を引用して解説している。
確かに、すべて生きる者として選ばれていれば
誰にも希望がある。
生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。
生きている者は死ぬことを知っている。
けれども、死者は何一つ知らず
もはや報いを受けることもない。
彼らにまつわる記憶も失われる。(9章4-5節)(抜粋)
「死ぬ日は、生まれた日にまさる」とか、「たとえ千年を二度生きても、人は幸せを見ない」などと言い、逆説的に生を否定してきたコヘレトが、生を無条件に肯定しています。死んだ獅子より、生きた犬。生きていれば、希望がある。生きているだけで幸いであるというコヘレトの、肯定的な死生観が見えてきます。死ととことん向き合った結果、「死」が「生」に反転し、生を全面肯定するのです。(抜粋)
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