「敬語の使い方」(その4)
岩渕悦太郎『悪文 伝わる文章の作法』より

Reading Journal 2nd

『悪文 伝わる文章の作法』岩渕 悦太郎 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

敬語の使い方(その4)
文体の不統一

「敬語」に関する「悪文」の最後は、「文体の不一致」である。


文体の不統一

まず、われわれの対話の文体には、常態と敬体の区別がある。

  • 常態(普通体)
    • ダ体
    • デアル体(論文体)
  • 敬体(丁寧体)
    • デス・マス体
    • ゴザイマス体
    • デアリマス体(講演体)

常態は親しい間柄や目下の相手、敬体はあらたまる必要がある人や目上の相手に使う。そして、この常態と敬体は、区別されていて、たがいに混同されることはない。
この常態と敬体を同じ場面で一緒に使ったら、聞き手が面食らってしまう。

対話の場合だけでなく文章についても同じことが言えるはずで、敬体・常体を混用した文章が、読み手に一種の心理的抵抗を与えることは間違いない。たとい意味は正しく伝わったとしても、心理的抵抗を与えるような文章は、やはり一種の悪文と言って差し支えないだろう。(抜粋)

ここで、常態と敬体が一緒に使われている例文を示し解説している。

常体の文に敬体が混じることはほとんどないとしながら、敬体の文に常体の文がまじるケースは幾つかあるとする。

  • 全体が敬体の文であっても、箇条書きの部分は常体で書くことは可能
  • もう一つは、「文の途中における場合」である
    文の途中は、いちいち敬体とするとかえってまどろっこしくなるので、常体でよい
    例) 「品質につきましては、当店といたしましても格別の注意を払っています。」
        を
       「品質については、当店としても格別の注意を払っています。」
        としてよい。
  • 敬体を基調とした文でも、次元を異にする場合は常体表現を交えてもよい。
以上のような、二、三の例外の場合は別として、原則として常体と敬体は混用しないように心がけるべきである。(抜粋)

全16回完了

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