「コヘレトの言葉」と私
小友 聡『コヘレトの言葉を読もう』より

Reading Journal 2nd

『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

あとがき 「コヘレトの言葉」と私

今日のところは、あとがきである。ここでは、本書全体のまとめがまず書いてあり、その後に著者のほぼ半生といってよい「コヘレトの言葉」との関わりが書いてある。


本書の「はじめに」及び「序章」(ココ参照)において「新しい読み取り」、「新しい視点」、さらには「新しい読み方」と何度も書かれているが、あとがきの冒頭でも、

私は本書において「コヘレトの言葉」を新しい視点から読み取るという大胆な試みをしました。(抜粋)

と書かれている。

まず、従来の読み方は、コヘレトを反面教師として「こんなコヘレトのような不信仰な懐疑主義者になってはだめですよ」というものであった。
しかし著者は、コヘレトは、当時黙示思想によってイスラエルの伝統的な価値観の破壊に直面、そして再び共同体を集めるために書いたとしている。そのように考えるとコヘレト=「集める人」と名乗った意図のわかるとしている。
黙示思想では、地上の歴史は破局に向かい、その向こう側の彼岸にしか救いはないとし、現実に対する諦めと悲観主義をもたらす。これに対してコヘレトは、現在生きている意味を見出し、神が定めた時はとうていつかみ取ることができないのだから、今この時を徹底的に生きよと教えている。これが著者の新しい読みである。
(黙示思想の参考書として、シュミットハルス『黙示文学入門』土岐健治他訳、教文館、1986年を挙げている)

次に著者のコヘレトの言葉との出会いが書いてある。
著者は大学の神学部に通っていたころ、旧約聖書が一番苦手だったという。そして、将来牧師になった時に困らないように旧約聖書を専攻した。そして、その旧約聖書でも一番わからない「コヘレトの言葉」を卒論に選んだ。

わからない旧約聖書の中で最高にわからない書だったからです。この最も難しい「コヘレトの言葉」を理解できるようになれば、きっと旧約聖書が理解できるに違いないと期待しました。(抜粋)

その後、大学院で「コヘレトの言葉」を専攻しても結局わからず、地方の教会の牧師となった。

私は、在学中から、「コヘレトの言葉」がひょっとすると黙示文学と関係があるのではないか、と考えていました。(抜粋)

そして、牧師になってから8年後にドイツ留学をする機会が訪れ、ドイツでの研究の結果、コヘレト8章とダニエル書の関係を発見し、それを論文として提出した。

黙示との関係において「コヘレトの言葉」を解明するという私の宿題はドイツでようやく片付きました。神学大学を卒業して一三年後のことです。(抜粋)

そして、旧約聖書の中のコヘレトの言葉の位置を次のように説明している。

「コヘレトの言葉」の意義を私はことのほか重要だと考えています。それは、旧約聖書にはこれと対極にあるダニエル書があるからです。ダニエル書の黙示思想はその傾向において、極端な終末思想に虜にされる危険があります。歴史の終わりに救済と希望を見る終末思想は実に魅力的です。けれども、それが突出すれば、オウム真理教による地下鉄サリン事件の如き過ちも現実におこるのではないでしょうか。彼岸に救済を求めると、此岸での生き方は空洞化し、自由と責任倫理は意味を失うからです。この危うい方向に対峙し、あくまで此岸を生きる自由と責任を説くのがコヘレトの反終末論ではないかと思います。(抜粋)

関連図書:シュミットハルス『黙示文学入門』土岐健治他訳、教文館、1986年

全14回完了

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