『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
Chapter 1 人の物語 / レオナルド最後の日々 —- Amboise(アンポワーズ)
レオナルド・ダ・ビンチは、一五一七年の一月六日にアンポワーズに移った。ここでは、アンポワーズの紹介と共に、レオナルドの晩年の日々を追っている。
レオナルドは、ローマでのパトロンだったスムール公ジュリアーノ・デ・メディチが亡くなったため、はるばるイタリアからこの地に移ってくる。
レオナルドがスムール公に呼ばれてローマに赴いたとき、スムール公は彼に大きなプロジェクトを任せようとしていた。それは、当時の状況からすると現在ミケランジェロの〈最後の晩餐〉が描かれている壁面だったと思われる。しかし、その計画は、もともと病弱だったスムール公が三七歳の若さで亡くなったため消えてしまった。
イタリアのヴィンチの公証人の家に生まれたレオナルドは、父母の階級差から私生児として育てられ、学校にも通うことなく、自然の中で可愛がられながら育つ。しかし、彼はラテン語や算盤などの初等教育を受けないことで一生苦労をした。
フィレンツェで修行したレオナルドは、ミラノへと移り住む。三〇歳のとき、軍事専門家と偽り仕官し、見事に宮廷技師となった。大慌てで勉強しほどなく本当の専門家となる。ミラノ宮廷では、軍事以外にも、都市計画、教会の改修、運河の浚渫、地図の作成、結婚式のイベントとしての劇の演出など様々な仕事をこなす。そして、そのなかに肖像画の制作もあった。
しかし、彼の手稿には、何事もなしとげてこなかったと苦悩を吐露する記述がある。絵画の大作と呼べるものはミラノで描いた〈最後の晩餐〉しかない。やはりミラノにおいて史上最大規模で臨んだ騎馬像制作は、フランス軍の侵入で中断された。(抜粋)
そして、ローマでもパトロンの死によって大作の制作が実現できずに終わってしまった。レオナルドの名は数々の活躍によって各国に知れ渡っていたが、実際は失意の連続で晩年を過ごしている。
そして、フランス王フランソワ一世から、王城の隣にあるクルー館(クロ・リュセ館)が与えられ、アンポワーズに赴いた。
フランス王はレオナルドに多くの仕事を課さなかった。既に軍事的にも政治的にもイタリアを圧倒したフランスは、唯一劣っていた文化と芸術における地位を得るために、文化先進地域のイタリアから著名な文化人を宮廷へ招聘し続けた。その最初の象徴的な例がレオナルドだった。
一五一七年一〇月一〇には、枢機卿秘書官アントニオ・デ・ベアティスがアンポワーズを訪れている。そこで彼は〈ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)〉を含む、現在ルーブル美術館にみられる絵画三点を目にしている。その際、デ・ベアティスはレオナルドの体の右側に麻痺がみられると記している。レオナルドは左利きだが、たとえ左利側のマヒでなくとも描画に影響は出るだろうし、デ・ベアティスも続けて、「もう良い作品は期待できない」とまで書いている。レオナルドがフランスで制作した絵画が見当たらない理由かもしれない。(抜粋)
六七歳のレオナルドは、死期をさとり遺言状を作成する。そして五月二日、クレー館で死去、その三ヶ月後にサン・フロランタン教会で葬儀が行われた。

コメント