『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一部 — 曹操と清流派(その4) — もう一つの三国志
今日のところは「曹操と清流派」の“その4”である。前節“その3”で黄巾の乱に対して手柄を立てた曹操は、董卓が洛陽に押し入ると洛陽を抜け出し、董卓討伐軍に参加する。そこで一度敗れるが、本拠地に戻って着々と力を蓄える。
今日のところ”その4“では、曹操は清流派知識人を次々と取り込み、袁紹の元を離れた荀彧をも得る、さらに黄巾軍をも自軍に取り込み着々と勢力を伸ばしていく。それでは読み始めよう。
清流派との結合
曹操と荀彧の出逢い
董卓討伐は不首尾に終わった曹操は、根拠地にもどった。そのころ袁紹は、冀州を制圧しその支配権を得た。そして、曹操は東郡に軍をすすめそこを根拠地とした。
そして、清流派のホープ荀彧が袁紹を見限り曹操のもとへ移る。「董卓の乱」後、冀州に移った荀彧は、支配権を得ていた袁紹に厚遇された。しかし、荀彧は袁紹には大事を成し遂げるセンスがないと判断し曹操にものとに移ったのである。
当時、勢いがあった袁紹のもとには多くの清流派知識人が集いそのブレーンとなっていた。しかし、
袁紹の性格的欠陥、すなわち寛容のポーズをとりながら、実は猜疑心がつよく狭量であり、優柔不断でここぞというときの決断力にかけるといった点を、鋭敏な荀彧は、あやまたず見抜いていた。(抜粋)
しかし、荀彧が曹操を選んだのは、袁紹を見限ったからという消極的なものではなかった。曹操は早くから清流派知識人の大物たちに認められていた。そして「董卓の乱」後、袁紹を盟主とする討伐連合軍が消極的なのに対して、曹操のみラディカルな行動をとった。そのようなことが清流派知識人のネットワークにより知った荀彧は、この人物が新しい時代の旗手となる人物だと判断したのである。
荀彧を得た曹操は、「君は私の子房(漢の高祖劉邦の謀臣張良のあざな)だ」と、手放しの喜びようだった。(抜粋)
こうして清流派知識人の何顒に「天下を安んじるのは、必ずこの人なり」と言わしめた曹操と、「王佐の器」と絶賛された荀彧(ココ参照)の二人三脚が始まった。
以降、荀彧は知力の限りを尽くして、行政・軍事の両面から曹操をカバーし飛躍させる。さらに荀彧は清流派知識人のネットワークを生かし、多くの人材を得て曹操政権の基盤を成したのである。ことが、荀彧を曹操のもとへ移らせたのである。
青州の黄巾軍の合流
曹操が荀彧を迎えた翌年に、董卓の養子の呂布が後漢朝廷の高官王允と結託し董卓を殺害するという事件が起こった。いよいよ群雄割拠の大乱世の開幕である。
この年、青州に根をはる黄巾軍が、兗州に侵入し長官を殺害する。曹操は後任の長官となり兗州の支配権を得、さらに黄巾軍を激しく攻め立て降伏させた。この時、青州黄巾の降卒三十予万が、曹操の軍勢に組み込まれた。
曹操は、青州の下部行政単位の済南国の相となったとき(ココ参照)、邪教淫祀を破壊した。このことは、黄巾の信じている太平道と同じであるとして、黄巾軍はひそかにシンパシーを持っていた。さらに、済南で悪徳地方官を一掃したことにも好意を持っていた。そのことが、黄巾軍が曹操に降伏したことの一因となった。
このように黄巾軍が清流派知識人にシンパシーを抱いていたと思わせる事例はいくつもあり、黄巾軍の底流にはそのようなシンパシーが流れていた。
初平二年、荀彧を協力者に得たことを機に、多くの清流派知識人を傘下に加え、政権基盤を固める糸口をつかんだ曹操は、その翌年こんどは三十余万の青州黄巾軍を吸収して、いっきょに軍事力を強化した。曹操はこうして、知識人レベルと民衆レベルの両サイドから、旧時代の反体制エネルギーを吸収することに成功したのだった。断固として、清流派寄りのスタンスをとりつづけた若き曹操の真摯な賭けは、ここにみごとに実を結んだというべきであろう。(抜粋)

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