『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一部 — 曹操と清流派(その2) — もう一つの三国志
今日のところは「曹操と清流派」の“その2”である。前回“その1”では、曹操の出自が、宦官の子孫であるという自慢できないものであること、そして、それは曹操の性格形成に陰に陽に働いたことが語られた。そして今日のところ“その2”は、そのような劣等感のある曹操の若き日の話である。それでは読み始めよう。
橋玄と何顒との出会い
そうそうの少年時代は、出自のいかがわしさを、派手なパフォーマンスで誇示するかのように「任侠放蕩」の暴れん坊だった。
ところが、意外にもこの不良少年にひそかに傑出した政治的才能を見抜き、おおいに肩入れする名士が現れた。橋玄と何顒である。(抜粋)
橋玄は、潔癖な性格で世間の評判も高い清流派知識人であった。彼はまた人物を識別する能力の持ち主であった。そのアンテナに無類の少年曹操が引っかかるのである。そして曹操に、こう告げた。
「私は天下の名士をたくさん見てきた。だが、きみのような人間は見たことがない。自分を大事にするんだよ」。橋玄のお墨付きを得たことによって、曹操の評判は一気にあがったのだった。(抜粋)
この橋玄の薫陶は曹操の人生を大きく変えた。後に「官渡の戦い」に勝利し、華北を制覇した曹操が、故郷に凱旋した際に、橋玄の墓に祭文(死者を祭る文章)を寄せた。そして、
曹操は、「士は己を知る者のために死ぬというが、私は橋公のためにずっとそんな思いを抱いてきた」とまで述べている。(抜粋)
有名な「治世の能臣、乱世の姦雄」と曹操を評した許劭と交際するに勧めたのも、橋玄であった。この橋玄により曹操は清流は関係のネットワークにつながりその知名度が徐々に高まっていったのである。
橋玄と共に早くから曹操を評価した知識人に何顒がいる。何顒は、ラディカルな清流派知識人だった。親しかった清流派のリーダー陳蕃が加担した宦官殲滅クーデターが失敗した後、彼も宦官派の追及をかわして逃亡生活をつづけた。
この筋金入りの反体制知識人何顒が、若き曹操と出会った瞬間、「漢王朝はいまや滅びんとしている。天下を安定させるのはきっとこの人物であろう」と感嘆したのだから、なかなか微妙な話だ。(抜粋)
何顒が曹操と出会ったのは、曹操がまだ十代後半の少年のころであったと思われる。
潔癖な名士橋玄から過激な反体制派何顒に至るまで、宦官派に対立する清流派の大物が、なぜ敵方に属する宦官の養子の息子である曹操の才能を、これほど高く評価したのだろうか。乱世を乗り切り、社会に安定をもたらすためには、後漢末清流派的な一本調子の正義感だけではもろすぎて、どうにもならない。人物鑑定の名手である彼らは、いがわがしい出自を背負った不敵な曹操のなかに、たじろぐことなく善悪の彼方を透視する、とてつもなく強靭な乱世の英雄の資質を見たのであろう。(抜粋)
何顒は、後に曹操の軍師となる荀彧を「荀彧は王佐の器だ」と称している。
出世する曹操
このように清流派知識人に認められた曹操は、猛烈な勢いで読書し、みるみるうちに視野を広げていった。特に兵学書を好み『孫氏』については後年、膨大な注釈までつけるほどに読み込んだ。
曹操は、その後も勉学に励み「軍を指揮すること三十余年、手から書物を離すことなく、昼は軍事の戦略を考え、夜は経書やその注釈に思いをこらす」という生活様式を崩すことはなかった。
そしてニ十歳になった曹操は、「孝廉」に推挙され官界にデビューする。この孝廉は軍や国が学問や人格に優れた人を中央に推挙する制度である。
士官したての曹操が、最初におこなったのは宦官派を叩くことだった。(抜粋)
曹操が首都洛陽の部尉(警察署長)に任命されると役所の門の両側に十本余の五色の棒をならべ、規則に違反した者を棒殺した。それは、霊帝の寵愛する宦官の叔父が、夜間外出禁止令を破った時も例外でなく、即座に打ち殺した。この効果は抜群で鬼所長曹操を恐れ、規則違反を犯す者はいなくなった。
そして、このようなやり方を続けられてはたまらないと霊帝の寵愛を得ていた側近や宦官が音をあげる。しかし、曹操は宦官の大立者の血筋だから罪を着せて排除するわけにはいかない。そのため、曹操が二十三歳のとき、頓丘の令(知事)に推薦して、洛陽から追い払った。
ここで著者は、曹操が宦官派に敵対的な態度をあらわしたのは、ここれが初めてではないとして、霊帝の取り巻きとして権勢を誇った張譲の豪邸に忍び込んで暗殺しようとした逸話に触れている。この時は、張譲に気づかれ失敗したが、鉾を振り回し追っ手を威嚇して土塀を乗り越えて逃げ出した。
張譲暗殺未遂事件といい、鬼署長として不埒な宦官の一族を棒殺した一件といい、若き曹操は意識的に、反宦官派として旗幟を鮮明にした。(抜粋)
このような行動により清流派の人たちの彼に対する信頼度が高まった。
頓丘に追いやられた曹操は、従妹の夫の事件に連座して免職になる。しかし、すぐに「古の学問」に明るいとしてまた義朗に任命された。ここで曹操は、たびたび霊帝に上奏文を奉じ、宦官や外戚の不正と堕落を糾弾したが、ほとんど無視される。ここでも曹操は全面的に清流派のスタンスをとり、過激な発言をしたのである。
こんな過激な「正論」を吐きながら、曹操は処罰されなかった。いうまでもなくその出自が安全弁として作用したためである。曹操は自らの位相を最大限に利用し、清流派の代弁者の役割を買って出たともいえそうだ。(抜粋)


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