含蓄について
谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃・文章読本』より

Reading Journal 2nd

『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

含蓄について—- 三 文章の要素

いよいよ「三 文章の要素」そして、この『文章読本』の最後となる。今日のところは「含蓄ついて」である。ここでは、含蓄というものについて述べている。そして、谷崎は、「この読本の最初から終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いている」といってよいほどであると重要性を強調している。それでは、読み始めよう。

含蓄が重要であること

含蓄とは、前段の「品格」において説いた「饒舌を慎むこと」「イ あまりはっきりさせぬこと」「ロ 意味のつながりに間隙を置くこと」と同じである(ココ参照)。

そして、前段においては、礼儀の方から論じていたが、ここでは「効果」の方から論ずる。そして、それは非常に重要であるとして、谷崎は次のように言っている。

この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申しても良いのであります。(抜粋)

主格とテンスを省くことの効果

ここで、谷崎は戯曲を翻訳しているロシア人から質問された逸話を持ち出している。戯曲を翻訳しているとき主格が明確でないため、主語が「私」なのか「彼女」なのか「世間一般の人なのか」分からないという。それに対して谷崎は、戯曲の筋から言えば「私」であるが、

しかし本当のことを云うと、「私」と限定してしまっては少し意味が狭められる、「私」ではあるけれども、同時に「彼女」であってもよいし、「世間一般の人」でも、その他の何人[なんぴと]であってもよい、それだけの幅と抽象的な感じとを持たせるために、この句には主格を置かないのである、…(後略)・・・(抜粋)

と答えている。

李白の詩とその効果

このような日本文の特長は、漢語にも見られるとし、李白の漢詩を例にして解説している。

この漢詩の魅力は、

  1. 主格が入っていないこと
  2. テンスが明瞭にされていないこと

にあり、これがある晩ある人の見たこと感じたことに限定しては、これほどの魅力を持つことはできない、としている。このようなことは、日本の古典にも多く認められる。

そして、このような手法は、口語文でもようよう可能であり、少なくとも、主格や所有格や目的格の名詞代名詞を省いた方が良い場合が、非常に多いと言っている。現代の作家でも里見とんは、しばしばこの手法を使っている。

もう一つ李白の詩で注意しなければならないことは、この詩には故郷へのあこがれ、哀愁の念がこもっているが、直接その感情を表す言葉を使っていない。このように、或る感情を直接それと云わないで表現することが、昔の詩人や文人のたしなみになっている。

谷崎は、これは文学に限ったことではないとし、演技を例にして、

ほんとうに芸の上手な俳優は、喜怒哀楽の感情をあらわしますのに、あまり大袈裟おおげさな所作や表情をしないものであります。(抜粋)

と言っている。

現代文に無駄な比喩が多いこと

この見地から現代の若い人の文章をみると、無駄な形容詞や副詞が多い、としている。そして悪文の実例として婦人雑誌の文章を引用し、そこに無駄な比喩が多いこと示している。そして比喩については、

全体比喩ひゆと云うものは、本当によく当てまって、それをたとへに引き出したため一層情景がはっきりする、と云うようなものを思いついた時のみ使うべきでありまして、・・・(後略)・・・・。(抜粋)

と言っている。

さらに同じ文章を「実用文」として無駄を省いた場合、自分が「小説」として述べた場合の二つの例を書き下して、その技巧まで詳しく解説する。

しかしこのように言葉を惜しんで使うことは、実際には難しく自身の小説蘆刈あしかりの一節を引いて、その文書の幾つかの言葉について、

これらの辞句のうちには、専ら言葉のつづき工合をなだらかにする必要から書き添えたものが多いのでありますが、そのために間隙がふさがり過ぎ、文章が希薄になっているとすれば、これらを除いてなだらかな調子を出すようにするのが当然であります。(抜粋)

と反省している。

そして、最後にこの読本のまとめとして、次のように言っている。

以上、私は、文章道全般にわたり、極めて根本の事柄だけを一と通り説明致しましたが、枝葉末節の技巧について殊更ことさら申し上げませんのは、申し上げても益がないことを信ずるが故でありまして、もし皆さんが感覚の鍛錬を怠らなければ、教わらずとも次第に会得えとくされるようになる、それを私は望むのであります。(抜粋)

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