『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一部 — 三国志の組織構造
今日のところは、「三国の組織構造」である。ここでは、魏・呉・蜀の三国の組織体系を比較して論じている。曹操の魏は、多くの武将や優秀な知識人を集め、他の二国を圧倒する中央性と先進性があった。孫権の呉は、土着豪族が孫氏を中心に結びついた連合政権であった。そして、劉備の蜀は、諸葛亮を得て初めて政権に値する組織なる地方軍事政権であった。それでは、読み始めよう。
後漢末の乱世、先進地域の華北を統一して成立した曹操の魏、華北に比べれば後進地域だった江南を割拠し、父子三代にわたり地盤を築いてなった孫権の呉、戦っては敗れ流転の果てに、堅固な地勢に拠って自立を成し遂げた劉備の蜀。このようにおのおの独自の条件のものに成立した魏・呉・蜀の三国は、その組織、人材登用法、さらには主従関係においても、おのずと明らかな相違が認められる。(抜粋)
三国一のバランスを誇る魏
曹操は、有能な人材を集めることに熱心で、その元には、軍事的、政治的に傑出した才能を持つ人物が次々と集まった。そしてこれらの人々を、曹操につき従った経緯から次の3つに分類できる。
第一期、早期に曹操のもとに集まった人々
曹操の一族(曹仁、曹洪、夏侯惇、夏侯淵)、猛将の典韋、親衛隊長の許褚、さらに曹操政権の成立に貢献した荀彧などである。荀彧は、知識人グループ清流派のホープであり、多くの知識人と繋がっていた
第二期、曹操の要請や曹操に帰属していた人の推薦によって傘下に入った人々
このグループは知識人が多く、荀彧の推薦の荀攸、郭嘉、さらに華歆・王朗・陳羣などの清流派知識人。そして、魏王朝の簒奪の野望をたくましくした司馬懿も、もとな荀彧に推挙された清流派知識人だった。
第三期、曹操の敵対勢力から投降により曹操軍に組み入れられた人々
呂布のもとにいた張遼、袁紹のもとにいた張郃などの武将、凄腕の謀士・賈詡など。曹操は経歴を問わず、才能ある投降者を喜んで受け入れた。
魏の政治体制の特長
曹操政府の中核を形成したのが、②の知識人グループの清流派であった。曹操は清流派知識人の意見を熱心に聞き、内政を整えていった。そして、曹操政権の重要な地位は軍人を押さえてすべてこれらの知識人によって占められた。
このように曹操は知識人を高級官僚の地位につけ、優遇したけれども、その主従関係は主情的であるより主知的かつ合理的なものであったといえよう。曹操と清流派知識人は、時代の混乱を収拾し天下を統一するために、むしろクールな計算のものにお互いを必要としたのである。(抜粋)
逆に曹操軍の中核をなす武将との関係は、主情的かつ全人格的な性格を持っていた。
このように、行政組織における主知的関係性と、軍事組織における主情的関係性の双方を巧みに使い分け、軍事的威力を有しつつ、単純に軍事政権化しなかった点に、曹操の魏政権の卓越性があるといえよう。(抜粋)
しかしこのような技は、曹操ならばでのもので、彼の子孫には到底できることではなかった。そのため、曹操亡き後に第一世代の大物が次々と亡くなると、第一世代の生き残りの司馬懿によって、軍団・政府組織のヘゲモニーを取られると、魏王朝は、もろくも崩壊し始めた。
危うい連合政権、呉
次に呉の孫氏政権の構造である。ここでは、初代孫堅、二代孫策、三代孫権の三期に分け、説明されている。
第一期、孫堅時代
孫堅は、呉の地方小豪族の出身だが、腕っぷしの強さを買われて、地方役人に任命された。そして「黄巾の乱」が始まると、配下の荒くれ武者たちと挙兵し大いに戦果をあげる。
孫堅軍団の特色は、彼自身任侠的性格が強く孫堅と、その配下の荒くれ武者たちとの主従関係が、徹頭徹尾、主情的かつ任侠的なものであったということである。(抜粋)
この武将たちの中心が、程譜、黄蓋、韓当たちである。
第二期、孫策時代
孫堅の死後、その後を継いだ孫策は、まれに見る軍事的天才だった。(抜粋)
彼は、身を寄せていた淮南の袁術のもとを離れ、父の部曲(私兵)と彼を慕う若者合わせて数千人の軍団を編成して、長江を渡って江東制覇の進撃を開始した。
孫策軍の中核は程譜ら譜代の武将と孫策と少年時代から堅い友情で結ばれた周瑜であった。この周瑜は比類なき智謀の人であり、後々まで孫一族に対して誠実であった。
孫氏兄弟と周瑜の関係も、エモーショナルな任侠の論理にもとづくものである。(抜粋)
孫策の軍団は、またたくまに江東を制覇し、土着の有力豪族をも、その支配下におさめた。江東の豪族も孫策を見込んで、孫氏を戴く統一政権を立てる道を選んだ。これらの豪族には、陸遜などの武将として活躍する人も多かった。
また、孫策は江東に移り住んでいた清流派の知識人、張昭を招聘して重用する。彼は、孫策がテロルに斃れたあとも、長期にわたり孫権の目付け役となる。
第三期、孫権時代
孫権は、父や兄と堅い絆で結ばれた軍団を中核に、兄孫策を見込んでその傘下にはいた江東土着豪族の指示を受けて、江南に確固たる政権を立てた。
孫権自身も軍事的才能に恵まれ、早死にした周瑜・魯粛の後任に呂蒙を抜擢するなど臣下の才能を見抜く眼識と度量があった。
しかし、孫権は老年にはいると衰え、後継者問題で判断を誤り混乱を招き、孫氏政権はしだいに江東豪族からの支持を失い始めた。
呉の政治体制の特長
こうしてみると、孫氏の呉はなるほど張昭のような知識人も存在したけれども、その数は少なく発言力も弱かった。呉を支えたのはエモーショナルな任侠の論理によって孫堅親子と堅く結びついた武人たちと、おのおの部曲を擁しつつその政権に加わった江東土着豪族であった。呉は、だから、その組織から見れば、あくまで武人と豪族の連合体としての軍事政権にほかならず、この点で先述の魏とは大いに異なるのである。(抜粋)
地方軍事政権に終わった蜀
蜀の組織を検討するために、著者は劉備の人生の軌跡を追っている。
劉備の人生は、三つの時期に分けられる。
第一期 「黄巾乱」討伐のために挙兵し諸葛亮にあうまで
挙兵当初から関羽、張飛と劉備は義兄弟の契りを結び、彼らとは全人格的信頼関係を結んだ。このころ劉備はしだいに頭角を現すも、曹操や孫権に比べて問題にならないほど無力で、自立の拠点を確保することはできなかった。そして荊州の劉表のもとに身を寄せているときに、諸葛亮と出会う。
第二期 諸葛亮の出会いから「赤壁の戦い」の後荊州の分有まで
劉備は「三顧の礼」をもって諸葛亮を向かい入れ、戦略的なブレーンを得た。
劉備と諸葛亮のこうした関係性もまた、関羽や張飛のそれと同質性を持つものであり、きわめてエモーショナルなものといえよう。(抜粋)
荊州の土着豪族と深いつながりのある諸葛亮が劉備と結びついたことは、荊州の豪族の支持につながったという面もある。
こうして「赤壁の戦い」に勝利した劉備は、荊州を分有し戦力を強化して、ついに食に入る。
第三期 蜀の領有から蜀王朝の皇帝となり死去するまで
劉備は行政センスの全くない人物であった。その代わりに蜀の政治組織を整え、政権として機能させたのは諸葛亮であった。そして、劉備の死後も諸葛亮は基盤の弱い小国蜀が存続したのは、ひとえに諸葛亮の力だった。そのため諸葛亮が亡き後、蜀が滅亡するのは時間の問題だった。
蜀の政治体制の特長
総じて見れば、劉備は諸葛亮と出会うまで、一騎当千の豪傑を中核とするわずかの軍団を率いて転戦を続ける群雄の一人にすぎなかった。彼は諸葛亮を得てはじめて大局的な戦略を有するに至り、蜀を領有した後、ようやく政権の名に値する組織をもったのである。(抜粋)
三国の政治体制のまとめ
これらの三国をまとめると、
- 曹操の魏は、軍事・政治の両組織をがっちりと固めた、他の二国を圧倒する先見性があった。
- 孫権の呉は、土着豪族が孫氏を中心に結びついた連合政府的色彩の強い軍事国家であった。
- それに対して、劉備の蜀は、諸葛亮の孤軍奮闘により最低限の行政組織を持つに至った地方軍事政権に他ならなかった。
そして最後に次のようにいってこの章を閉じている。
このように三国はおのおのその組織と構造に異にするけれども、ただ、曹操・孫権・劉備の三人の英雄たちに共通するのは、彼らと軍団の中核をなす部将たちの間に、いずれも全人格的な信頼関係が存在していたということである。このことは、食うか食われるかの乱世を、戦いぬき勝ち残っていくには、なにはさておき、こうしたエモーショナルな強い紐帯がなくてはならぬことを物語っている。(抜粋)
初出掲載誌:歴史群像シリーズ「三国志下巻」九〇年四月、学研


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