品格について(その2)
谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃・文章読本』より

Reading Journal 2nd

『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

品格について(その2)—- 三 文章の要素

今日のところは、「品格について」の“その2”である。“その1”において、文章の品格の概要とそれが日本語、日本文化に根差していることを学んだ。ここからは、品格の要素である。「一 饒舌を慎むこと」(その2)、「二 言葉使いを粗略にせぬこと」「三 敬語や尊称をおろそかにせぬこと」(その3)が順々に取り扱われる。それでは、読み始めよう。

一 饒舌を慎むこと

まず第一の項目は「饒舌を慎むこと」である。これは「控えめにする」「内輪にする」と同じことである。これをもっと詳しく書くと「イ あまりはっきりさせぬこと」「ロ 意味のつながりに間隙かんげきを置くこと」に分けられる。

イ あまりはっきりさせぬこと

現代は、科学的に述べることが流行り文学でも写実主義といって、何事も事実の通り移すことが喜ばれるが、われわれの伝統ではそのようなことは上品な趣味でない。また、文章は物事を暗示するだけのものであるので言葉を節約する方がよい

一体、われわれは、なまの現実をそのまま語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事柄との間に薄紙一と重の隔たりがあるのを、品がよいと感ずる国民なのであります。(抜粋)

そのため、昔の人は明確に云えることもわざと遠廻しに言った。王朝時代の物語などは、時や、所や、主要人物の名前などを、はっきりと書いていない場合が珍しくない。小説であるから実名を附けようとすればなんとでも附けられる。しかし、

それでは、文品が卑しくなり、かつ、たとい物語の上とは云え、その婦人たちの人柄に対して礼を失するからであります。(抜粋)

長い間、口語と文章語とが截然せつぜんと別れていたのは、この「薄紙一枚を隔てる」心持、つまり、口語は饒舌に陥りやすいため、文章語はその品位を保つために相当の距離を設けたということである。

しかし、現代では、文章語の方は、西洋流の文法や表現法が応用され、口語以上に細かいことが言えるようになった。

文章語の方は西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児あいのこのようなものになっており、実際の口語の方は、これも段々西洋臭くなりつつありますが、まだ本来の日本語の特色を多分に帯びている、(抜粋)

そのため、文法に囚われず口でしゃべる通りに書く会話体ココ参照)を勧めている。またこれらの古典文が持っている優雅の精神、おおまかな味わい、床しみある云い方を少しでも口語文に取り入れて、文章の品位を高めるように心がけている

現実をぼかして書くことと、描写に虚飾を施すこととは、混同されやすいので注意が必要である。文章において正直と素朴というものが貴ばれるのであり、綺麗な言葉、美しい文字を連ねて上品であると考えるのは間違いである。むしろ飾り気のない俗語を用いた方が品のよい場合がある。

ロ 意味のつながりに間隙を置くこと

次の「意味のつながりに間隙を置くこと」も、表現を内輪にし、物事の輪郭を舞やっとさせる一つの手段である。

これについては、

昔の書簡文、即ち候文の書き方を見て頂くのが良いと思いますので、左に一例を掲げる事に致します。(抜粋)

と言って頼山陽らいさんようの書簡分を長文引用している。(候文については、ココを参照)

この手紙の巧味うまみは、主として間隙、即ち意味につながり具合が欠けている部分である。云い換えれば、行文のところにわざと穴があることである。このような間隙は、文章の品位や余情を助ける働きをしている。

書簡文は、個人と個人の間に取りかわわされるものであるので、お互いにわかることは省略することが多い。しかし、大勢の読者を相手にする文章でも古典文には、一般にこのような間隙が沢山見いだせられる。

現代の口語文が古典文に比べて品位に乏しく、優雅な味わいに欠けている重大な理由の一つは、この「間隙を置く」、「穴を開ける」と云うことを、当世の人たちがあえて為し得ないせいであります。(抜粋)

当世の人は、文法的の構造や論理の整頓にらわれるため、句と句、センテンスとセンテンスの間が意味の上で繋がっていないと不安になる。そのため、無駄な穴填めの言葉が多くなってしまう。

一体、現代の文章の書き方は、あまり読者に親切過ぎるようであります。(抜粋)

実際にはもう少し不親切に書いて、あとは読者の理解力に一任した方が効果がある

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