[読書日誌]『三国志曼荼羅』
井波 律子 著

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』井波 律子 著、岩波書店(岩波現代文庫)、2007年
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

三国志の英雄たち — 曹操と劉備

井波 律子の著作は、これまでも『論語入門』、『故事成句でたどる楽しい中国史』、などを読んだが、今回本書『三国志曼荼羅』を手に入れたので、読んでみることにする。「あとがき」と「岩波現代文庫版あとがき」によると、本書は、井波が寄稿した三国志関連の小文を集めたものである。長短いろいろあり、短いと四ページ、長くても四〇ページの20話である。

目次をみると三部構成となっていて、

  • 第一部:魏に関連する七篇
  • 第二部:蜀と呉に関連する五篇
  • 第三部:多種多様な角度から、三国志世界にアプローチした八篇

である。

まずは、三国志の英雄曹操と劉備の話からはじまる。井波は曹操を光の英雄劉備を影の英雄と対比させ、そして中国での劉備が善玉、曹操が悪玉という認識が中国古来の思想から生まれていることを示している。それでは読み始めよう。


二世紀末の中国では、退廃した後漢王朝が自滅すると、全土が群雄割拠の騒乱状態となった。そして、三世紀の前半に曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の三国が分立し、天下の形勢が固まっていく

その様子を描いたのが西晋せいしん陳寿ちんじゅの著した『正史 三国志』である。その後十四世紀になってから羅漢中かんちゅうが正史をベースに、民間芸能の語り伝えであるさまざまな「三国志物語」をと力む形で『三国志演義』を作り上げた。

以下、正史をもとに、『演義』をも参照しつつ、「三国志」世界の二人の対照的リーダー、曹操と劉備のイメージを寸描してみよう。(抜粋)

光の英雄曹操

曹操の活躍

魏の創始者の曹操は、はい国の出身で、後漢末の勢力ある宦官かんがんの養い孫(養子の息子)だった。著者は、「あまり誉められた家系の出ではなかった」と評している。

若いころからタクティクス(権謀術数)にけ、人物鑑定で定評があった許劭きょしょうから「治世の能臣、乱世の姦雄」と折り紙をつけられた。

その後、「黄巾の乱」「董卓の乱」の平定で名をあげ、荀彧じゅんいくら一流の知識人を傘下に収めて、群雄のトップグループになる。そして、後漢王朝最後の皇帝・献帝けんていの後見人となり、他の群雄より一段高い位置を占める。

曹操の長所は、荀彧をはじめ、文武をとわず有能な人物をどんどん登用し、彼らに充分腕をふるわせたことにある。この長所がブレーンの層を厚くし、曹操政権の基盤を強化したのだった。(抜粋)

その後、官渡かんとの戦い」袁紹えんしょうに勝ち、北中国を制覇する。赤壁せきへきの戦い」孫権・劉備連合軍に敗北し天下統一をしそこなったが、その後も権力を強化し、魏公から魏王となった。

曹操の英雄性と姦雄性

曹操は、政治家であると共に死ぬまで戦い続けた軍事家でもあった。さらに、自ら『孫子そんし』の注を書いた学者でもあり、抒情詩という新たな文学ジャンルを開拓した最初の詩人でもあった。

多才な才能をきらめかせる曹操は、まさしく自ら光り輝く英雄だったのである。(抜粋)

しかし、『三国志演義』に見られるように、曹操が、時として見せる姦雄性のみが増幅され、善玉の劉備に対する悪玉の曹操というイメージが、定着してしまった。

曹操の人材登用

曹操は、有能な人材をこよなく愛し、文武両面にわたり多くの傑出した人物が集まった。曹操政権の基盤を作った荀彧は、後漢末期に腐敗した宦官派に対抗した知識人グループ「清流派」のホープだった。彼は曹操の謀臣として二十年にわたり活躍し、献帝の後見人になるように進言するなど数々の戦略を曹操に進言した。しかし、赤壁の敗戦後に、権力志向を強めた曹操とそりが合わなくなり、曹操が魏公になることに反対し、迫られて自殺した。

曹操は、ともすればシャイで批判的な言葉をろうしがちな知識人に対しては、究極的には冷酷であり、用がすめばお払い箱にしてしまう傾向があった。(抜粋)

その反面、剛毅な武人を酷愛する。それは、劉備の家臣である関羽にも向けられた。曹操は関羽が捕虜となったとき、下にも置かぬ歓迎をして関羽を家臣にしようとした。しかし、関羽は「白馬はくばの戦い」で袁紹軍の猛将顔良がんりょうを討ち取り、それを置き土産に劉備のもとに帰ってしまう。

このとき曹操はあくまで初心を変えない関羽の剛毅な精神に、むしろ感動したのだった。(抜粋)

しかし、曹操のもとにも典韋てんい許褚きょちょなどの関羽に劣らない剛毅朴訥な武人がいた。

曹操軍団のこれらの猛将たちと曹操の関係性は、蜀の劉備と関羽・張飛ちょうひの絶対的な信頼関係にも、劣らぬものがあったといえよう。(抜粋)

影の英雄劉備

劉備と関羽、張飛との出会い

曹操が光の英雄ならば、劉備は影の英雄である。劉備の生まれは、真偽のほどは分からないが漢王朝の血筋を引くとされる。しかし、劉備が生まれた時はすでに家は没落していて貧困のどん底にあえいでいた。

時は黄巾の乱を皮切りに群雄割拠の乱世に入っていた。そして劉備は、事件を起こして出奔していた関羽、同郷人の張飛と出会う。この関羽は、超人的な武勇の持ち主であると共に教養も高かった。しかし何よりも任侠にんきょうの論理」を重視する義理人情の人であった。『三国志演義』では、このような関羽の美点を誇張して称賛している。一方、張飛は、関羽と異なり教養はなくガサツでガラが悪かった。しかし劉備への思い入れは一番強くかった。このような張飛は『演義』に先行する民間芸能の「三国志物語」では、トップスターであった。

諸葛亮と「天下三分の計」

劉備はこの二人の大豪傑と義兄弟の契りを結び、寄せ集めの軍勢で黄巾討伐に向かう。そこで頭角をあらわし群雄の一人となり、徐州に本拠地を構える。しかし、すぐに呂布りょふに追われ、曹操のもとに身を寄せる。曹操が呂布を倒すと曹操と対立し、けい州の劉表りゅうひょうのもとに逃げ込んだ。

鳴かず飛ばずの数年を経て、二〇七年、劉備は「臥龍がりょう」と呼ばれた荊州の逸材諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめい(一八一 - 二三四)を三顧さんこれいをもって迎え、ついに自分のために戦略を立ててくれる軍師を得た。(抜粋)

そして、その直後に曹操の大群により撤退を余儀なくされる。ここで諸葛亮は、呉の孫権と同盟を結んで、「赤壁の戦い」で曹操を撃破することを献策する。この戦い勝ち「天下三分の計」を持論とする諸葛亮のおかげで、蜀を占有し、曹操の魏、孫権の呉に肩を並べて、三国分立の形勢となる。

劉備ら義兄弟の退場と諸葛亮

劉備はあくまで情の人であった。(抜粋)

その後、軍事責任者として荊州に残留した義兄弟の関羽が殺害されると、呉に無謀な進撃をして撃退され、諸葛亮にすべてを任せて亡くなってしまう。もう一人の義兄弟張飛は、呉に進撃する直前にアクシデントにより部下に暗殺されてしまう。

劉備ら義兄弟が無くなった後、諸葛亮は、劉備の信頼にこたえ、暗愚な劉備の息子劉禅りゅうぜんを支えて、五度北伐をするなど亡くなるまで活躍した。

劉備と曹操、その違い

曹操が知識人を用いる場合、その能力は買っても、心は買わなかった。それに対して劉備は、臣下の心も能力も含め、その全存在を買った。これが超一流の諸葛亮が、それほどパッとしない劉備に全身全霊をあげて尽くした秘密である。

自ら光り輝く曹操と、自分は大いなる影となって臣下を光り輝かせる劉備。光の英雄と影の英雄。二人のリーダーのこうしたコンストラストが「三国志」世界の興趣を、いやがうえにも盛り上げる作用を果たしているのである。(抜粋)

そして最後に著者は、『三国志演義』が影の英雄劉備を善玉とし、光の英雄曹操を敵役にするのは、理由があるとしている。

伝説の聖天子ぎょうの治世は「日でて作り、日入りていこう。井をうがちて飲み、田を耕して食らう。帝力我において何を有らんや」(「撃壌歌げきじょうか」)とたたえられた。古来、中国ではこのように強い支配力を感じさせないタイプの君主が理想とされ、劉備はまぎれもなくこの系列に属する。この君主美学により、露骨な支配者型の曹操が嫌われたのは、むしろ当然の帰結かも知れない。(抜粋)

初出掲載誌:「国語科通信」九五年二月、角川書店


関連図書:
井波 律子 (著)『論語入門』 、岩波書店(岩波新書)、2012年
井波 律子 (著)『故事成句でたどる楽しい中国史』 、岩波書店(岩波ジュニア新書)、2004年


目次
第一部
三国志の英雄たち —- 曹操と劉備 [第1回]
三国志の組織構造 [第2回]
曹操と清流派 —- もう一つの三国志
曹操をとりまく女性たち
三国志時代の詩人たち —- 曹操・曹丕・曹植
曹操姦雄伝説の形成
魏の諸葛一族
第二部
周瑜伝
諸葛孔明
蜀の五虎将軍
諸葛亮はなぜ蜀を選んだのか
第三部
陳寿の「仕掛け」
民衆世界の三国志
湖南文化『通俗三国志』
日本人と諸葛亮
私にとって『三国志』
乱世の群像 —- 三国志の人々
三国志世界の末裔たち
三国志の美将たち —- 『三国志』から『三国志演義』へ
年表
あとがき
岩波現代文庫版あとがき

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