『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一七 結語にかえて
今日のところは「一七 結語にかえて」である。ヨブ記の解説を終えるにあたり、著者は、ヨブ記を研究している立場として幾つかの所感を述べるとして、四つの問題を挙げている。それでは読み始めよう。
第一の所感:用語の難しさ
第一として「ヨブ記は文学としてその透徹した理解を得ることが困難である」ことが挙げられる。その理由の一つは、用語の難しさにある。この用語は旧約聖書中ここだけにしか使われていないものがある。さらに、詩の部分の用語は象徴的であり、如何にでも解釈できる余地がある。
第二の所感:広範囲な予備知識
第二として「ヨブ記を真に理解するためには、旧約聖書全体、ユダヤ教文献のみならず古代オリエントの言語、文学、ギリシャ語、ギリシャ文献、広くはヨーロッパの思想史、文学史をしらければならない」ことである。著者は、このようなことは、著者の力にあまりあることであると、言っている。
第三の所感:聖書を読む意義
第三として「解釈者の人生経験の切実さ、またヨブの問題に対する洞察の深さ、鋭さ」である。ヨブ記を読み解こうとすると、あらゆる意味において自分の無力を痛感し、それを告白せざるを得ない。聖書にものを問うということは、逆に聖書から自分が問われていることであると感じるに至る。
自分の問題の解決を聖書に求めんとして却って問題を一層深められ、掘り下げられる結果となる。これが聖書を学ぶ大きな意義だと思われるが、そのことは広くあらゆる古典に通ずるものであろう。(抜粋)
第四の所感:人間の苦悩
第四として「ヨブ記は人間の苦悩を問題としている」ことである。著者は、この解説を人間に重きを置いて解説したとしている。それが本書の実在的理解である。しかし、それはヨブ記の神議論的な意義を奪ったということにならない。
むしろ人間存在の問題を真実に取り上げることによって却って神の義が明らかにされたのであるといってよい。(抜粋)
ヨブ記の結論は、神の義が人間の義に勝ったことであり、それによりヨブの新しい出発が始まる。このヨブは、すさまじい格闘の末、神の義に敗れたが、そこから回復、完成が始まった。
すなわち、弱さと罪深さを持つ無知なる人間、一言でいえば、原罪の人間が矛盾は矛盾のままにその結末において新しい地盤に置き換えられたということである。(抜粋)
それは、詩編詩人がいう砕けた魂が神の祭壇に献ぜられるということである。
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。(五一ノ一七)(抜粋)
ヨブ記は、ヨブの栄光から始まり、それらが奪い去られた後、最後にもう一度人間としての栄光が取り戻されている。
「主は取りまた与える」
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな(一ノ二〇)(抜粋)
このこと、「主は取りまた与える」は、神が我々に真実なもの永遠なものを与えるために、過ぎ去ったものを奪うことがあるのではないか。地位、名誉、財産などの地上生活で必要なものを、奪われることにより、却って永遠の世界、真実の世界に目が開かれるのではないか。
しかし、このような地上の支柱を奪われることにより、大部分の人はそのまま自滅してしまう。しかし自滅を免れ、新しい出発をさせるものが、信仰とか宗教なのではないか。
最後の所感:ヨブとエレミヤの戦いを支える信仰
最後の所感は、「本書の解説においてエレミヤを引き合いに出した」ことである。それは、ヨブ記が同じ知恵文学の「箴言」や「伝道の書(コヘレトの言葉)」とは性格を異にし、予言者の信仰、ことに「エレミヤ書」の影響が大きいからである。
ヨブ記は、人間性精神の苦闘を描いている。彼は友人と争い神とまで争っている。その執拗に戦う力は何であろうか。そして、エレミヤは民と争い、疲労困憊し、予言者とされた任務を解放されることを願った。しかし、主の言葉によりそれを語るまいと思っても語らざるを得なくなる。
人間の悪戦苦闘においてそれをあくまでも支えるものが何であるかを示す、それがヨブ記が我々に与える最大の教訓ではあるまいか。(抜粋)
ヨブ記は、なぜ義人が苦しむのかということについて、なんの回答も与えられない。しかし、最後において神の呼びかけにより、ヨブは目覚め、満たされた。そして、その神の呼びかけも、慰めや労りではなく、叱咤、激励である。
おそらくヨブはそのことによって慰め労わりよりも大きく、深い神の愛その慈しみを感じられたのではないか。(抜粋)


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