体裁について(その2)
谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃・文章読本』より

Reading Journal 2nd

『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

体裁について(その2)—- 三 文章の要素

前回「体裁について」“その1「イ 振り仮名、送り仮名」では、振り仮名や送り仮名の振り方の問題を取り扱った。そして今日は、“その2”「ロ 漢字及び仮名のて方」である。ここで谷崎はこの問題の複雑なることを詳細に解説し、自身がどのような方針を取っているかについて解説している。それでは読み始めよう。

ロ 漢字及び仮名の宛て方

漢字、仮名の宛て方の問題点

谷崎は、二通りの読み方がある漢字の例を次のように挙げている。

生物イキモノ/セイブツ食物クイモノ/ショクモツ帰路カエリミチ/キロ振子フリコ/シンシ生花イケバナ/セイカ、他

これらの漢字は、振り仮名がない限り、音で読むか訓で読むかは読者しだいである。そのため、もしで読んでほしい場合は、名詞を構成している動詞に送り仮名をして、

生き物、食べ物、帰り路、振り子、生け花、他

と書かなければならない。

谷崎は、従来このように音で読むときは送り仮名をせず訓で読むときは送り仮名をするのが良いと考えていた。しかし、ここに困難がある

その場合、指物さしもの⇒指し物、死水しにみず⇒死に水、請負うけおい⇒請け負い、振舞ふるまい⇒振る舞い、抽出ひきだし⇒抽き出し、と書かなければ、音で「シブツ」「シスイ」「セイフ」「シンブ「チュウシュツ」と読まれてしまうことになる。

さらに、過去の歴史や習慣、伝統を引きずるもの「若年寄」「目付」「関守」「賄方まかないがた」のような語をどこまで除外例とするかは作者の気分次第となる。

そして、音にも訓にも関係が無く、言葉の意味から漢字を宛てたもの寝巻ネマキ浴衣ユカタ塵芥ゴミ心算ツモリ姉妹キョウダイ母子オヤコ身長セイ泥濘ヌカルミ粗笨ゾンザイ可笑オカしい、アヤしい、五月蠅ウルサい、ヒドい、矢庭ヤニワに、威嚇オドす、強要ユスる、があり、これらの漢字には、基準がない

森鴎外の方法

ここで谷崎は、森鴎外がこのような問題に対し行き届いていて、確乎かっことした方針のもとで整理したように思われると言って、それについて説明している。

森鴎外は、浴衣ゆかた⇒湯帷子、塵芥ごみ⇒五味、寝衣ねまき⇒寝間着、ひどい⇒非道い、のように書いた。(湯帷子のみ「ゆかたびら」と読まれるのを防ぐため、振り仮名がしてある)

つまり、鴎外の漢字の宛て方は、意味をむよりは、その言葉の由来にさかのぼって語源の上から正しい文字を宛てるのであります。(抜粋)

そして、「キョウダイ」には、姉と妹であっても必ず「兄弟」の文字を宛て、母と子であっても「オヤコ」には必ず「親子」の文字を宛てる。もし是非とも女の兄弟であることを示したい場合は、「女の兄弟」「姉妹[しまい]」「姉と妹」と書く、女親であることを明かしたい場合は、「母子[ぼし]」「母親と子」と書く、もしくは仮名で書くことにする。

谷崎は、このような鷗外の方針に影響をうけたことを述べた後、しかし、そえでも判断に迷うことがあり、逆戻りしつつあると言っている。

鷗外の方針を徹底させると、「単衣ひとえ」⇒「一と重」、「あわせ」⇒「合わせ」、「うち」⇒「内」となり、そこまで実行しかねる。

「訓」というものは、漢字の意味を取って、その意味に当て嵌る日本語を持ってきたものである。それは、「卓子」と書いて「テーブル」、「乗合自動車」と書いて「バス」と読ませることとあまり変わらない。つまり、「家」を「イエ」以外に読んではいけないという理屈とはならない。

この考えを押し詰めていきますと、何もまった訓などと云うものはありはしない、間違ってさえいなければどんな読み方をしてもよい、と、最後にはそうなる。(抜粋)

即ち、鷗外の方針に従っても

結局、日本の文章は、読み方がまちまちになることをいかにしても防ぎきれない、のであります。(抜粋)

谷崎潤一郎の方針について

ここで谷崎は、このことの方針として次のような主義を仮設していると言っている。

それらを文章の視覚的ならびに音楽的効果としてのみ取り扱う。云い換えれば、宛て字や仮名使いを偏えに語調の方から見、また、字形の美感の方から見て、それらの内容の持つ感情と調和させるようにのみ使う、のであります。(抜粋)

まず視覚的効果の方では、「アサガオ」は、「朝顔」と「牽牛花」と二通りの書き方があるが、日本風の柔らかい感じを表わしたいときは「朝顔」、支那風の硬い感じを表わしたいときは「牽牛花」と書く。などである。

音楽的効果の説明では、『盲目物語』を書いた時の工夫について述べている。この物語を書く時谷崎は、なるべく漢字を使わないよういした。それは、この物語が戦国時代の按摩あんまによる回想であるため、視覚的効果を狙ったのである。

なおもう一つは、全体の文章のテンポを緩くする目的、即ち音楽的効果をも考えましたのでありました。(抜粋)

この方針に従うと、振り仮名の問題は自然と解決する。総ルビもバラルビも差支えないが、それは文章の内容と調和するかにかかっている。そしてそこに読者に対する親切は、勘定に入れない。読者がどう読むかを気にすると際限がないので、そこは読者の文学的常識と感覚に一任する。

しかし、この方針は実際には、その場の気紛れになり、無方針に近い

ここでまた鷗外の方針について考えると、

鷗外の文字使いの正確さも、あの森厳で端正な学者肌の文章の視覚的効果なのであって、もし内容が情熱的なものであったら、ああ云う透徹した使い方は或いはさまたげたかも知れない。(抜粋)

と言っている。さらに漱石の「吾輩は猫である」の独特な文字使い(「ゾンザイ」⇒「存在」、「ヤカマシイ」⇒「矢釜しい」等々)は、無頓着で出鱈目でたらめであるが、それがあの飄逸ひょういつな内容に相応しく、俳味と禅味を補っている。

せんずるところ、文字使いの問題につきましては、私は全然懐疑的でありまして、皆さんにどうせよこうせよと申し上げる資格はない。鷗外流、漱石流、無方針流、その孰れを取られましても皆さんの御自由でありますが、ただ、いかに面倒なものであるかと云う事情を述べて、ご注意を促すのであります。(抜粋)

関連図書:谷崎潤一郎 (著)『盲目物語 他三篇』、中央公論新社 (中公文庫) 、2021年

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