『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一六 ヨブの回復
今日のところは「一六 ヨブの回復」である。前章の懺悔の後、ヨブ記の四二ノ七以下は再びプロローグと同じ散文となり、ここよりエピローグとなる。ここでは、神のヨブの友人たちへの怒りから始まる。そして、ヨブは友人たちを執り成し、さらにヨブは再び繁栄を取り戻す。それでは読み始めよう。
ヨブ記のエピローグ
ヨブ記の四二ノ七以下は、再び散文となり大団円のエピローグとなる。それは同じく散文だったエピローグ(一、二章)と共にヨブ記の額縁(ココ参照)となる部分である。
神の友人たちへの怒り
主はこれらの言葉をヨブに語られた後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しいことをわらしについて述べなかったからである。」(四二ノ七)(抜粋)
まず神は、ヨブの第一の友人エリパズと二人の友に怒りを表す。ここでの「怒りが燃えた」という語とエリフがヨブに対して「怒りを起こした」(ココ参照)は同じである。
その理由は、「ヨブのように正しいことをわたしにいわなかったからである」である。ここで問題なのは「正しいこと」であり、その原語は「確かなこと」「信頼すべきこと」「誠実なこと」という意味となる。
この「正しいこと」は、「ありのままのこと」と解するのが最も適当である。それは装飾に飾られた言葉でなく、率直なありのままの言葉であり、「裸」ということに通じている。
ヨブは弱い、時に醜い、そのような人間の姿をそのまま神の前にもさらけ出して訴えた。そこには自分を飾る何ものもなかった。(抜粋)
友人たちとの言葉は、昔からの賞罰応報の言葉であり、それは神に対して正しくなかった。そしてヨブは、自分のありのままの姿において神に直接呼びかけたのである。
神がヨブに耐え得ざるほどの苦痛を与えたことも彼を丸裸にするためであったといえよう。 ‥‥中略‥‥ ヨブの懺悔、その新しい出発はその裸から始まった。くりかえしになるがそれはまさに幼児の如くならずば天国に入ること能わずといったイエスの言葉そのものを意味するのである。(抜粋)
神に執り成しをする者
その後、友人たちは神に命ぜられ、燔祭の動物、牡牛七頭を呼ぶに送った。そしてヨブはそれを神に捧げて祈る。ヨブは、友人たちの過ちを神に向かって執り成したのである。
ここで「祈り」「祈る」という言葉はとりなしの祈りである。ただし九節の終わりの「祈りを受け入れた」は、直訳的には「顔をあげる」であり、顔を立てるという意味となる。
ヨブは神に向かって執り成す者として語られている。そしてそれは犠牲を献じて執り成しの祈りをする旧約聖書の祭司の姿である。その意味においてヨブ自身の今までの身心の苦悩はイザヤ書五三章における「主の僕の歌」に通じ、他の罪を背負い、代ってそのために自ら犠牲となって執り成しをする、その精神がヨブについてもいい得るであろう。(抜粋)
回復するヨブとその解釈
このエピローグの後半(一〇節以下)は、ヨブが元の繫栄を取り返し、財産が二倍に回復した、家族が失ったのと同数が与えられた、ヨブから離れた兄弟姉妹、友人たちが戻ってきた、と記されている。そして、ヨブは一四〇歳まで生きた。
この部分は、ハッピーエンドとなっていて、この部分はむしろない方が良い、一〇節以下は削除した方が良い、という意見もある。
ここで著者は、この部分に対するさまざまな意見を紹介している。一つは、これを精神的、霊的に解すべきで、ここに記されていることの具体的な事柄は象徴的な意味を持つだけで文字通りに解釈する必要はない、というものである。これに対しては、あまりにも現代的な解釈であると言っている。今一つは、へブル人は霊と肉、物質と精神の両方を重視するため、彼らはこの地上での現実生活に重心を置いて信仰に取り組んでいた。そのため、最後において霊的、精神的な祝福を回復するだけでは満足しなかったというものである。
ヨブ記のエピローグの記者はヨブが地上的幸福を取り返すまではその悲劇は終わらないと考えていたのではないか。その結果としてハッピーエンドにならざるを得なかったのであろう。(抜粋)


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