神の呼びかけ(前半)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

一四 神の呼びかけ(前半)

今日から「一四 神の呼びかけ」である。これまで、ヨブの苦難に対して友人たちとの論争が行われ、最後にエリフの説教があった。しかし、そのようなことではヨブの問題は解決できなかった。そしていよいよ神が登場する。神はつむじ風となり現れ「わたしに答えよ」とヨブに言う。

第十四章は、”前半“と”後半“に分けてまとめることにする。それでは、読み始めよう。

神の登場

エリフの説教の後、神が登場する。

無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。(三八ノ二、三)(抜粋)

ここで、

  •  「神の計りごと」→原語では単に「計りごと」は、知恵を表わす用語
  • 「あなたは腰に帯して、男らしくせよ」→原語では「汝男の如く腰に帯せよ」であり、男は「勇士」「戦士」と語源が同じで力強い人、腰に帯するは、出陣の姿勢
神はヨブに向かって勇士の如くなれと力強く呼びかけているのである。(抜粋)

人という語と神という語

この「男らしく」の「男」は旧約聖書では「人」と訳される語の一つである。旧約聖書では「人」と訳される語が七つくらいある。そして「神」と訳される語も数多く存在する。

聖書は神について語っている書であるが、人間に関する関心も大きい。聖書は神なしに人間は考えられないのだが、反対に人なくしては神は意味をなさない。動物や植物も神の創造物であるが、その物によって神が問題とされることはない。

そこで聖書において神と人間とが種々の用語によって取り上げられらているということは人間は神の被造物であるが、動物や植物、その他もあらゆる自然と同じではない、況や機械の如きものではない。神を問題にし得るのは、人間だけであるということを示しているのではないであろうか。(抜粋)

つまり聖書は、はなはだ人間臭いものであると言える。

第一の問題:ヨブが義しいか、神が義しいか

ヨブは、今も苦しんでいるが、彼は何故苦しむのかその理由を知らない。神は二回目の呼びかけで、

あなたはなおわたしに責任を負わせようとするのか。
あなたはわたしを非とし、
自分を是とするのか。(四〇ノ八)(抜粋)

という。これを直訳すれば「汝は実にわが裁きを空しくするか、汝がただしくあるために、我を悪しとするか」である。

ここで「責任」と訳される語は、裁くという動詞から来ていて「正義」を表わす原語とほとんど同義語である。この「責任」は裁きと関係が深く、旧約の律法と不可分である。

ヨブは何処までも神に対し、自分の義を主張する。(抜粋)

そして、ヨブが正義である場合は、神が不義であることになる。それゆえ神は、厳しくヨブに問うている。ヨブの苦しみは一体どっちの責任であるかを問うている

アダムとエバの堕落の物語

ここで著者は、アダムとエバの堕落の物語を思い起こすと言っている。

アダムとエバは、蛇(サタンの象徴)の誘いにより「善悪を知る木の実」を食べてしまう。この蛇の誘惑に陥ることにおいて彼らは自己自身に目覚めたと解せられる。

この蛇の誘惑は、アダムとエバにとって不可抗力であったが、そこから人間が背負うあらゆる苦悩を味合わなければならなくなる。

そこで人間が自己に目覚めるということは自己の運命に目覚めることであり、それはまた自己の負うべき苦悩を背負うということでもある。(抜粋)

その意味で、人間は幸福を求め不幸を招いている。逆に不幸なしに幸福はないということでもある。これをキリスト教的にいえば「原罪」ということになる。

このアダムとエバの蛇の誘惑による堕落は、人間が原罪の中に封じ込められたことを意味し、それは、人間一人一人が背負っている矛盾である。

このように考えると、人間の苦悩は人間の責任なのか、或いは神の責任なのかという問題がある。

アダムとエバは不可抗力と言うべき蛇の誘惑に敗れて、そこから彼らの不幸が生まれる。ヨブの場合は、ヨブを試みることをサタンに許したのは神である。その意味でヨブの不幸は彼の責任ではなく、神の責任である。しかし、彼はそのために苦しまなければならなかった。アダムとエバの場合も、神が蛇に誘惑を許さなければ、彼らは堕落することはなかった。

両者は同一の問題、人生における最も不可解な人間の運命の問題を取り上げているものだといえるであろう。(抜粋)

ここで問題なのは、神が禁じた木の実をアダムとエバが食べたことである。それは神の否定的な命令であり、律法である。その律法を彼らが破ったことに重要な問題がある。

最初の人間であるアダムとエバが神の命令としての律法を背負いながら、それを守れなかった。そこに人間の悲劇がある。

それはやがてパウロの嘆き --- 善としって行い得ず、悪と知って避け得ざる二律相反のうめき、彼の言葉をもってすれば「わたしは自分のしていることがわからない。なぜならわたしは自分の欲することを行わず、却って自分の憎むことをしているからである」という苦悶に通ずるものがある(ロマ書七ノ一五)。それが人間の負う宿命であり、根源的な悲劇といい得られるのではないか。(抜粋)

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