『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一二 聖書と自然(その3)
今日のところは、「一二 聖書と自然」の“その3”である。第一二章では、ヨブ記のもう一つの問題である自然との関りについて考察している。これまで“その1”、“その2”において、聖書における自然の記述の概略が述べられ、そしてヨブ記での、「野の石と契約を結び」という表現に注目し、自然が厳しいパレスチナでは、人は神との契約によって自然から守られることが解説された。
それを受けて、今日のところ“その3”では、対立する自然と人間とが如何に協調、融和することができたかについて考察される。それでは読み始めよう。
ヨブ記に語られる自然の法則
パレスチナの地では、対立する自然と人間が、融和するには「契約」という媒介が必要であった。この「契約」は神とイスラエルの民との特殊な関係であり、一種の法的な関係である。そのため、契約と律法は不可分であり、言葉として同義語のように使われる。
彼(神)は地の果てまでをみそなわし、
天が下を見きわめられたからだ。
彼が風に重さを与え、
水をますで量られたとき、
彼が雨のために規定を設け
雷のひらめきのために道を設けられたとき、
彼は知恵を見て、これをあらわし、
これを確かめ、これをきわめられた。(二八ノ二四 - 二七)(抜粋)
ここでは、風、水、雨、雷のような気象も神の支配であることが歌われている。ここで著者は、「神が雨のために規定を設け、雷のひらめきのために道を設けられた」に注目している。ここの「規定」は「法」や「律法」と同じ語であり、元来は「彫る」や「刻む」という動詞から出てきた名詞である。
また同じように天体についても
あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。
オリオンの綱をとくことができるか。
あなたは十二宮をその時にしたがって
引き出すことができるか。
北斗とその子星を導くことができるか、
あなたな天の法則を知っているか、
そのおきてを地に施すことができるか。(三八ノ三一 - 三二)(抜粋)
と歌われている。
ここの「天の法則」もさきの「規定」と訳された語と同じである。
この語は、神ヤーウェとイスラエルの民との契約関係、または人と人との法的関係を定めている語である。
そういう語が天候、気象だとか、天体の運行だとかにあてはめられてここに語られている。(抜粋)
このことは、旧約聖書が自然の中に法則的なことを見出そうとしていることを示している。しかし、ギリシャの自然哲学の考え方とは違う。ギリシャの自然哲学では、人間と自然を根本的に同質として、天地自然の中に一つの法則性を見出している。それに対して、へブルの思想では、神と民、人と人を定める法則的なものを自然にあてはめることにより自然の法則性を求めようとしている。
そしてこの法則的なものは天地創造の人格的神とは無関係ではなく、この神が定めた規定なり、法則なりが人間に与えられているように、それと同じものが自然の中にも発見されるとみなしているのであろう。(抜粋)
このことは、旧約では今までにほとんど触れられていないことがヨブ記に言われているのである。
ヨブ記では、自然についてはっきりと規定、法則を語っている。そのことは、「知恵」「悟り」に関係し、人間とかがその生活や歴史に関係するのではなく、大地自然にもか変わると言っている。
旧約で語られる自然
ここで著者は、他に自然を語っている旧約の個所として、イザヤ書とエレミヤ書を上げている。
イザヤ書では、農耕についての季節的な関係を述べた後
これもまた万事の主から出ることである。
その計りごとは驚くべし、
その知恵はすぐれている。(イザヤ書二八ノ二九)(抜粋)
と続いている。
また、エミリヤが神ヤーウェからの叛き去って帰ることを知らないイスラエルの民に、
空のこうの鳥でもその時を知り、
山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。
しかしわが民は主のおきてを知らない。(エレミヤ書八ノ七)(抜粋)
と嘆いている。
しかしヨブ記の言葉ほどはっきりと自然を語っているわけではない
聖書で語られる奇蹟について
ここで著者は、神対人間に関連して、聖書に語られる奇蹟に言及している。
奇蹟は普通、非日常的な出来事、異常な出来事として受け取れている。しかし、聖書でいう奇蹟はそのようなものであろうか?と疑問を呈する。そして、聖書で現れた奇蹟を列挙し、次のように述べている。
奇蹟が意味する根本の観念は何であろうか。
それは奇蹟とはただ非日常的、異常な出来事を指すのではなく、創造の神と自然また人間との間の直接的な関係が奇蹟の前提としているということである。そのような直接的な関係なくしても奇蹟というものは考えられない。従って奇蹟的な出来事そのものに重点を置くのではく、それが人間と宗教的な関わりにおいて何を意味するかが重要であるといえよう。(抜粋)
著者は、奇蹟を一本の指にたとえるとして、その不思議な出来事が起こったか起こらなかったかを問題にするのは、指の長さや太さを問題にすることであり、そうではなく、その指がどの方向に向かっているかが重要である、と言っている。
ヨブ記の自然と奇蹟
ヨブ記においては、自然について法則的なものが語られている。この法則的なものが、神と自然、神と人間との関係を全く断ち切ってしまうのであれば、奇蹟が起こる余地がなくなる。
ここは、つまりのところ、自然がニュートン力学で決まってしまっては、奇蹟が起こる余地が無くなってしまう、ということだろう。ん?・・・・ 量子力学だとどうなるんだろう?、わ、わかりません。(つくジー)
さらに、著者は、ヨブ記について次のように言っている。
聖書が奇蹟について語っている以上のような神と自然、神と人間の直接的関係が基本になっていることを認めった上で、なお自然における規定とか、法則とかいう語をヨブ記が用いていることははなはだ暗示深きことであると思う。(抜粋)
自然の法則と人間の法則の関係
これまでに、ヨブ記における死後感、霊肉の関係などを見てきた(ココとかココとかココを参照)。聖書での強調点は肉でなく霊にある。しかし、肉を軽んじ霊のみを重んじるのでは無い。
ここで、著者は、人間を霊とすれば自然は肉であると言えるかもしれない、と言いている。聖書で人間が中心であることは間違いないが、歴史を作る地盤としての大地、すなわち自然が問題にならないはずはない。
旧約聖書が人間の歴史におけるが如く自然の現象についても法則的なものを認めrようとし、その一端がヨブ記の中に示されることは意義深いとおもわれるのである。(抜粋)
ここで著者は、人間の外(自然)と内(精神)との密接な関係を示す部分として次の言葉を引用している。
あなたは声を霊にあげ
多くの水にあなたをおおわせることができるか。
あなたはいなずまをつかわして行かせ、
「われわれはここにいる」と、
あなたに言わせることはできるか。
雲に知恵を置き、
霧に悟りを与えたのはだれか(三八ノ三四 – 三六)(抜粋)
ここで「雲」、「霧」とされる語は、英改正訳では、「内部」「精神」と訳される。
前者は詩篇五一で、「心」という語と同じである。
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしは隠れた心に知恵を教えて下さい。(五一ノ六)(抜粋)
そして、著者ははっきりとした意を汲み取るのは難しいとしながら、
同一の語が、一方に気象を意味し、他方に精神を意味しているのははなはだ興味深いことである。(抜粋)
と言っている。そして、それが「知恵」「悟り」という語に結びつくことから、
そこには一種の法則性が暗示されている。強いて言えば自然の変化に法則がある如く、人間の心の動きにも法則があり、それは皆天地創造の神から出ているのであってそれを知ることが知恵であり、悟りであるとうのではあるまいか。(抜粋)
と言っている。
つまり、自然の法則と人間の法則は全く別のものではなく、もともと神と民、民と民の間を規則する掟の概念から出ているのである。
ここの部分はなるほど難しい。つまりは、自然の法則も人間の法則も元は天地創造の神との掟から出ているものであるってことのようです。そして、その自然の理論がヨブ記において顕著に記されているって・・・・・ことですよね?って違うかも?(つくジー)


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