「漱石」 三浦 雅士 著
[Reading Journal 1st:再掲載]
(初出:2009-01-28)
第七章 向き合うことの困難 - 『行人』と『心』
漱石には捨てること捨てられることへのこだわりが抜きがたくあった。それはその幼児体験に寄っている。その体験から、「そっちがそういうつもりなら、こっちだって考えがある」と考える癖を形成していった。その論理は、常に「じゃあ、消えてやろうじゃないか」という考えへと発展する。これは、捨てられるなら、捨ててやるという論理である。
東京を捨てて松山へ行き、松山を捨てて熊本へ行くのも同じ論理であり、さらには、母を罰するために母を捨て、家族を罰するために家を捨て、世間を罰するために世間を捨てたのである。
このような心の癖、行動の癖は、『それから』の代助や『彼岸過迄』の市蔵にも現れる。
東京を捨てて松山を捨てる漱石は、空間を移動しているのではない。次元、つまり超然としていられる次元、一つ上の次元、非人情の次元へ移動している。そしてまさに、その次元の移行を『それから』の三千代も『彼岸過迄』の千代子も卑怯だと言っている。『彼岸過迄』においては、その卑怯を、市蔵の出生の秘密に帰している。
『彼岸過迄』につづく『行人』は、不愉快な小説である。『行人』において漱石は、自分を批判的に分析するよりも、正当化することに気を取られて主題に向き合っていない。
『行人』においては、一郎とお直という夫婦の間がぎくしゃくしている。その描き方には、精神分析と同様な考え方がある。しかし、夫婦の間がぎくしゃくしているのは、一郎の高級な思想が原因であるとしているところで失敗してしまった。
『心』においても、『行人』のように夫婦は危機に陥っている。この夫婦の危機ということにおいては『心』もまた『行人』と同じ構造をもっている。しかし『行人』は、日本の近代化によって蝕まれていく知識人の孤独というものを含むのに『心』は、ひたすら三角関係の悲劇としてとらえていく。
この点においても、『心』は『行人』を圧倒していますが、しかし、漱石人生上の主題、母に愛されなかった子という主題においても、それ以上に圧倒している。(抜粋)
『心』は漱石のそれまでの作品を集約している。これまでにありえた選択肢をひとつづつ丁寧に跡づけしている。
被害と加害はつねに逆転しうるという問題こそ、『心』のもっとも大きな問題いにほかならない。先生もKも被害者であると同時に加害者なのです。そしてそれは、捨てられることと捨てることという、母に愛されなかった子の主題を思い起こさずにはいかない。
腑分けしてゆけば、母に愛されなかった子という主題が、随所に滲み出てくるわけですが、漱石はあからさまなかたちではどこにもその痕跡を残していない。ただ、母に愛されなかった子という主題によって発生した心の癖、行動の癖だけが、さまざまなかたちで物語を動かしていくだけです。
『心』が漱石のひとつの到達点であることは疑いありません。(抜粋)


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