『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
九 人の道と神の前 — ヨブの良心と信仰 — (後半)
今日のところは、「九 人の道とか神の前」の”後半“である。ここでは、ヨブ記の峰の一つである一三章について述べている。”前半“は、ヨブは、友人の説得を聞き入れることができず「神と論ずることを望む」と言った。それは、友人の説得(神の弁護)が、結局は不義であり偽りであることをヨブが感じたからである。
それを受けて“後半”では、友人の神への弁護がなぜ偽善となるのか、という問題を考えた後、ヨブの「わたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう」という言葉の意味について考察する。それでは読み始めよう。
友人の善意なる偽善
ここで著者は、一三章の少しあと方にあることば、「これこそ私の救いとなる。神を信じない者は神の前に出ることができないからだ」(一六節)、という言葉を引いて、ここで「神を信じない者」は、偽善者と訳すのが最も適当であるとしている。つまり、ヨブからみれば友人はきわめて善意なる偽善者である。ヨブは友人について、
あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、
皆無用の医者だ。
どうかあなたがたは全く沈黙するように
これがあなたがたの知恵であろう。(一三ノ四、五)(抜粋)
と言っている。ヨブから見ると友人たちは「無用の医者」、つまり治療したりする能力のない医者である。彼らはヨブの苦悩が何処から来ているのか、その根本の原因を突き止める洞察力が無く、そのため、本当に慰めることができない。
ここで著者は、親鸞の悪人正機説の「善人をもって往生をとぐ、況や悪人をや」を思い出すと言っている。
友人たちは義人であり信仰者であるとし、その立場からヨブの不信不義を責めるが、ヨブからすると彼らがそのように思い込んで、そのような顔をしている限り、ヨブの根本の問題が何処にあるかわからないように見える。
ヨブの苦悩の根本原因
ここで著者は、ヨブの苦悩の根本の原因は何処にあるかを問題とする。
あなたがたの格言は灰のことわざだ、
あなたがたの盾は土の盾だ。
黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。
何事でもわたしに来るなら来るがよい、
わたしはわが肉をわが歯をとり、
わたしの命をわが手のうちに置く。
見よ、彼(神)はわたしを殺すであろう。
わたしは絶望だ。(一三ノ一二 – 一五)(抜粋)
ここで、ヨブは神がヨブを殺すだろうといい、絶望だと言っている。しかしヨブは、つづいて、
しかしなお、わたしはわたしの道を
彼の前に守り抜こう。
これこそ私の救いとなる。神を信じない者は、
神の前に出ることはできないからだ。(一三ノ一五 – 一六)(抜粋)
と言っている。
著者は、「わたしは私の道を彼の前に守り抜く」という言葉がヨブの根本問題だと言っている。
この「私の道」は、自分自身の生活、生き方、人間としての立場を言い、それを守り抜くと言っている。ヨブは自分の生き方を曖昧にせず、誤魔化さずに良心的な生き方をすると言っている。
従って信仰とか宗教とかは敬虔を装う人間の擬態を創るおのであるべきでない。それこそ偽善である。(抜粋)
同時に「神の前で守り抜く」と言っている。信仰が人の前(人を相手)とした場合、それは偽善である。ヨブは厳正な神の前で自分の立場を守り抜くということである。
この「私の道」と「神の前」というのは、
もし一方を良心、倫理の立場とすれば、他方は信仰、宗教の立場である。この二つはどのように調和し、一致するであろうか。そこにヨブの根本問題があったと解されるのである。ヨブはこの二つのものの間にはさまれて向け出すことができず、またそこから抜け出そうとも思わない。それはいわばきわめて厳しい人間の生き方といわねばならないであろう。(抜粋)
予言者のはざまとヨブのはざま
著者は、このようなヨブの姿は、モーゼ以後の旧約聖書の予言者に一貫していると言っている。
彼らは神と民の間に立ち、民の立場に立って神に訴え求めると共に神の立場に立って民をいましめ、時には責めなければならなかった。そこに予言者の執り成しの立場があり、それは予言者が予言者たる根源的な性格であり、基本的な姿勢であったと考えられる。(抜粋)
そのため一つの体を二つに引き裂かれる思いをした。そのためエミリヤは、
おおわがはらわたよ、わがはらわたよ、
わたしの苦しみに悶える。
わが心臓ははげしく鼓動する。
わたしは沈黙することができない。(エミリヤ書四ノ一九)(抜粋)
と叫ばねばならなかった。
ヨブもこのような二つのものの間に立たざるを得なかった。しかし予言者たちは神と民のはざまであったが、ヨブの場合は、神と自己のはざまであった。そしてヨブは
しかしなお、わたしはわたしの道を
彼の前に守り抜こう、
これこそわたしの救となる。(一三ノ一五、一六)(抜粋)
という。ヨブはこのような絶体絶命のはざまに立つのでなければ、そこからの救いはないと言っている。
神と人間の間の断絶
友人達は、神に対して誠心誠意であり、ヨブに対しても善意を持つが、結局「無用の医師」「偽善者」に過ぎない。それは、彼らは人間の立場と神の立場、倫理と信仰が矛盾なく調和している。しかし、信仰から倫理は当然生まれて来るが、倫理がそのまま信仰ではない。
神の立場と人間の立場の間には大きな深い断絶がある。ヨブからいえば友人はその断絶にまったく気づいていない。(抜粋)
友人たちは、自分自身の問題持たないか、持っていたとしてもそれを直視し、それに悩み苦しんでいない。そのようなものとヨブのように、一つの問題のために苦しんでいる者との間には大きな相違が横たわっている。
ヨブ記は実に神と人間との間の断絶に苦しみ悩み、しかしそこかを通り抜け、それを克服しなければ人間の真の救いはないということを教えてくれる。(抜粋)
ヨブの「義」と「潔白」
ヨブは、簡単に人間の立場、自己の義というものを捨ててしまわない。
わたしは断じてあなたがた(友人)を正しいとは認めない。
わたしは死ぬまで潔白を主張してやめない。
わたしは堅くわが義を保って捨てない。
わたしは今まで一日も心から責められたことがない。(二七ノ五、六)(抜粋)
このように自己の義、潔白について断言している。ただし、彼は自分が絶対的に無罪であり、信仰的にも道徳的にも完全無欠であると言っているのではなく、これほどの激しい打撃を神から受け、苦しみ悶えるような大きな罪を犯した覚えはないと言っている。
ここでヨブは「義」とか「潔白」とかを簡単に捨てることができない。
何故ならそうすることはヨブが今抱えている問題の真の解決にならないからであり、それはヨブの自殺である。(抜粋)
ここにおいてヨブの相手は友人ではなく神となる。彼が友人たちの諫言に従うのは容易なことだが、彼はあえてその諫言をしりぞけ、神と対立する。
ヨブが「わたしは全能者と物を言おう、わたしと神と論ずることを望む」と言っている理由もそこにある。(一三ノ三)(抜粋)
ヨブは、友人に対して頑固なだけでなく、神に対しても強情である。しかし、そのような強情こそ最後に彼を救いに導く。


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