人の道と神の前(前半)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

九 人の道と神の前 — ヨブの良心と信仰 — (前半)

今日から、「九 人の道とか神の前」に入る。第九章は、ヨブ記の一三章について述べている。ヨブは、友人の賞罰応報主義的な説得に納得せず、次第に論争となってしまう。そして、ヨブは「わたしは神と論ずることを望む」とし、論争の相手が神へと変わっていく。そして、ヨブは「わたしの道を彼(神)の前に守り抜こう」と自身の道を示す。著者はこの章は「ヨブ記」における一つの峰をなす重要な章であるとしている。

第九章は、二つに分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。

ヨブと友人との論争

今から章を少し飛ばし一三章について述べて見たい。(抜粋)

ヨブの友人たちの信仰的な立場は、善には善、悪には悪という賞罰応報主義であった。そのため、ヨブは友人の言葉を拒否し、次第に論争になってしまう。第二の友人ビルダテなどは手厳しい言葉をヨブに投げつける。

いつまであなたはそのようなことをいうのか、
あなたの口の言葉は荒い風ではないか。
神は公儀を曲げられるであろうか、
全能者は正義を曲げられるであろうか。
あなたの子たちが彼(神)に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。(八ノ二 - 四)(抜粋)

ビルダテは、ヨブの子たちが神に対して罪を犯したので、罰として滅ぼされたとまで言っている。そして、

あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼(神)は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。(八ノ五、六)(抜粋)

家族の罪を認めて神の前に懺悔し、信仰に立ち返れと言っている

ヨブの神への訴え

このような友人の言葉にヨブは耐えられず、直接神と論ずることを望んでいる。これは、神への祈りというより、神との論争であり争いであった。

あなたがたの知っていることはわたしも知っている。
わたしはあなた方に劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。(一三ノ二、三)(抜粋)

ここで著者は、この第一三章は、『ヨブ記』における一つの山場であり、大きな峰であると、指摘している。

また、ここでは、「論ずる」「言い争う」という言葉が出てくるが、これはエミリヤと神との論争(エミリヤ書一二ノ一)に関係し、法廷がその背景となっていると、注意している。

近代聖書学の「生活の座」

話はここで少し横道にそれ、近代聖書学「生活の座」の説明になる。

聖書学では、最近二、三〇年以来、様式史的研究が唱えられている。その研究においては「生活の座」というものが問題となる。そこでは、ある聖書の言葉が如何なる座もしくは場において語られたか、書かれたかを検討する

そして『ヨブ記』の座は、法廷である。ヨブ記では、ヨブと友人と神との間で法廷論争が戦わせられている。第一三章では、ヨブが「神の不当な彼への処置」について訴えていて、ヨブが原告、神が被告、友人が弁護人である。また、プロローグ第一章第二章)では、サタンが原告、ヨブが被告、そして神が弁護人の関係となっている。

また、旧約においては「門」が法廷の役割をなしている。そこは町や村の出入り口というだけでなく、一種の小さな公会場となっていて、村や町で事件が起こった場合は、そこで、訴える者、訴えられる者、証人、弁護人が集まり、長老が裁判官の立場に立って事件を処理する。

法廷の座としての『ヨブ記』

『ヨブ記』の第一三章は、ヨブが原告、神が被告、友人が弁護人であるが、ヨブは友人たちの弁護が本当に弁護になっているか、問題を感じている。

今わたしの論ずることを聞くがよい、
わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。
あなたがたは神のために不義を言おうとするのか、
また彼のために偽りを述べるのか、
あなたがたは彼にひいきをしようとするのか、
神のために言い争おうとするのか、
神があなたがたを調べられるとき、
あなたがたは無事だろうか、
あなたがたは人を欺くように
彼を欺くことができるか、
あなたがたももしひそかにひいきするならば、
彼は必ずあなたがたを責められる。(一三ノ六 – 一〇)(抜粋)

友人たちは神を弁護しようとしているが、ヨブから見ればそれは弁護になっていず、結局、彼らの言うことは、不義であり偽りである

友人は神の顔を立てようと贔屓ひいきのつもりであるが、神は人間からそのようなことをされる必要はないし、人間が神を贔屓することが可能であるか、はなはだ怪しい。それをヨブは問題にしている。そのようにすることは神を欺くことになりはしないかと、ヨブは考えている。

友人たちは神に対してはなはだ善意であり善意のかぎりを尽くしている。しかし、それをヨブから見れば真の善意となっておらず、「偽りを述べる」こと、「不義を言う」ことであり、真実ではなくむしろ虚偽である。(抜粋)

これは、人間が神に対して善意のかぎりを尽くしても、それが虚偽になってしまう場合があることを示している。それはエレミヤが警告しているように、自他の現実を直視していないからである。

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