ヨブの立場と友人の立場(後半)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

七 ヨブの立場と友人の立場(後半)

今日のところは、「七 ヨブの立場と友人の立場」の“後半”である。”前半“では「友人の説得」に対するヨブの答えが示された。そしてさらに友人の説得が続いた。

今日のところ”後半“では、エリパズがその言葉の根拠としている「神秘的な体験」について旧約聖書からの紹介があり、その後、エリパズ立場からの説得ヨブの立場からどう聞こえたかを問題とする。それでは読み始めよう。

神秘的体験とエミリアの真実

前回、“前半”において、エリパズは自分の言葉の根拠を「神秘的な体験」によっていた。ここでは、それを受けて、この旧約聖書における神秘的体験について説明されている。

旧約聖書では、幻、霊、夢などは、人間が神の啓示をうける重要な通路であった。(抜粋)

ここで著者は、「夢が啓示の通路であるということについて思い起こすのは預言者エレミヤであった」とし、しばしヨブ記から離れエレミヤの話となる。

予言者エレミヤは、自己を真の予言者として、偽りの予言者を厳しく批判した。そしてエレミヤが何故に偽りの予言者の予言を偽りとするかということについて、エレミヤ書では「夢を見た夢を見た」としきりに言っている。この夢は神の啓示を人間に伝えるための通路である。

エレミヤが問題にしているのは、偽りの予言者が予言の権威を夢におき、その夢により如何なる啓示が伝達されたかをあまり問題にしていないということである。つまり方法よりも内容が重要であるということである。

夢をみた予言者は夢を語るがよい。しかしわたし(神)の言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。わらと麦とを比べることができようかと主や言われる(二三ノ二八)(抜粋)

ここで「わら」とは籾がらのことであり「麦」とは穀粒のことである。つまり一方は風が吹けば飛び散ってしまうが、他方はそのあとに残る、という意味である。

つまり、信仰は何よりも真実でなければならぬということである。さらにその真実と現実とは相即的であり、現実が如何に醜くともありのままに受け取り、如何に厳しくとも、それを恐れたり、避けたりせずに、真正面から勇気をもって取り組むこと、それが信仰の基本姿勢であるとエミリアは言っている。

そして、エミリアは人間の弱さや脆さにも目を向けている。弱い人間は激しい現実にぶつかるとしばしばみじめな挫折を経験する。しかし、エミリアの真実はそのような挫折をも乗り越えていくものであった。

彼は真実をこのような二面から問題にしているのであって、それは一方に現実に通ずると共にそれに打ち勝つ真実、すなわち信仰に基ずき現実に正しく対処し、それを克服していくことであった。(抜粋)

エリパズの真実とヨブの真実

ここで話は、またヨブ記に戻る。

エリパズは、夜の幻や霊によって神の啓示を受けたとしているが、ヨブはこれに批判めいたことは言っていない。エリパズは、このような不思議な経験を語ることでヨブを説得しているが、しかし、ヨブはもとより首肯しているわけではない

このエリパズの言葉の中で、呼ぶからすると愚かしいと思えるものがある。

しかしわたしであるならば神に求め、
神にわたしのことをきかせる。
彼は大いなることをされるかたで測り知れない、
その不思議なみわざは数え難い(五ノ八、九)(抜粋)

ここで、エリパズは災難にあい落胆してしまったヨブに対して、私ならば、かかる不幸な時こそ一切を神に委ね、その力を信頼する、といっているのである。

この言葉は、非常に信仰的に立派だと思われるが果たしてそうであろうか、と著者は疑問を呈している。

エリパズは、死の苦しみを苦しんでいるヨブに対して大変立派なことをいっているが、果たしてそれは真実ということが問題であろう。ヨブから見れば彼のような苦悩の中にいないエリパズの言葉は内容なき空疎なもの、ただ言葉だけ言葉としか感ぜられなかったのではいか。(抜粋)

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