「欧米仏教」ブーム — グルーバル化する仏教(その2)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第九章 グローバル化する仏教 近代の仏教3(大谷栄一) (その2)

今日のところは、「第九章 グローバル化する仏教」の“その2”である。“その1”では、日本の仏教のグローバル化について概観した。そして今日のところ“その2”では、日本の仏教と西洋で興った「神智学」「プロテスタント仏教」との交流を取りあつかっている。それでは、読み始めよう。

2.明治二〇年代初頭の「欧米仏教」ブーム

海外宣教会の設立

明治期に海外視察(ココ参照)や留学(ココ参照)ではなく、仏教を雑誌の刊行を通じて文書伝道を実施したのが、真宗本願寺派普通教校(現在の龍谷大学)(ココ参照)の教職員により設立された海外宣教会である。普通教校の英語教師・松山松太郎まつやままつたろうとアメリカの神智学徒(後述)の文通から始まった神智学徒との文通は、やがて『亜細亜之宝珠(Bijou of Asia)』という雑誌になり、その発行母体として海外宣教会が設立された。これは世界でも最初期の英文仏教雑誌であった。また、日本宣教会が日本語で発行した雑誌が『海外仏教事情』である。

日本の伝統教団の海外布教の場合、日本人の移民や居留民を対象とした場合がほとんどなのだが、海外宣教会の場合、海外の仏教徒と直接的に連絡・交流している違いがある。(抜粋)

神智学と「プロテスタント仏教」

『亜細亜之宝珠(Bijou of Asia)』『海外仏教事情』で神智学徒との通信が掲載されている。

ここでは、この「神智学」「プロテスタント仏教」について、吉永進一の研究に基づいた解説がなされている。

神智学(theosophy)とは西洋オカルティズムに東洋の宗教思想を接合した神秘主義思想である。(抜粋)

そして、ニューヨークでヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(思想面)とヘンリー・スティール・オルコット(実務)により神智学協会が設立された。その後、オルコットとブラヴァツキーは拠点をインドに移し、その後、セイロンに仏教徒神智学協会を設立する。

オルコットは、上座部仏教の教理をまとめて『仏教問答(A Buddhist Catechism)』 を出版し仏教の基本教理をまとめた。それは、リベラルなプロテスタンティズムにもとづく合理的・倫理的な性格のものであった。オルコットはさまざまな仏教改革を実行してセイロンの仏教復興に寄与する。

このような背景には、当時のセイロンの状況が関係している。セイロンでは、イギリス政府によりキリスト教が優遇された。このイギリス支配に抵抗し仏教復興運動を担ったのが、オルコットの神智学協会であった。そして一九世紀後半以降のセイロンの仏教復興運動は「プロテスタント仏教」とよばれ、プロテスタント的、キリスト教と植民地主義への抵抗、伝統仏教への抵抗という特徴を持っていた。

この「プロテスタント仏教」は、ヨーロッパの影響を受けている日本の近代仏教とも共通点が多かった

ここで注意すべきは、釈興然や釈宗演がセイロンで体験した仏教も(伝統的なシンハラ仏教であるとともに)プロテスタント仏教だったのである。(抜粋)

(釈興然、釈宗演に関してはココ参照)

オルコットの仏教改革運動の特徴と来日

このオルコットの仏教改革運動の特徴は、「南部仏教(上座部仏教)と北方仏教(大乗仏教)の統一を訴えて、その改革を進めた」ことである。

そのオルコットが一八八九年(明治二二年)に来日し、熱狂的に迎えられた。そこでオルコットは、キリスト教を批判し、仏教の統一を力説する。

このオルコットと日本仏教界との協力関係は、オルコットからすると世界仏教統一運動の一環であるのに対し、日本側からすると西洋の権威を仏教の復興に利用しようというものであり、両者の思惑はずれていた。そのため、一八九四年(明治二七年)の再来日時には、初回のような熱狂的な歓迎を受けることはなかった。

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