『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第七章 廃仏毀釈からの出発 近代の仏教1(大谷栄一) (その2)
今日のところは、「第七章 廃仏毀釈からの出発」“その2”である。“その1”は、「近代仏教」の定義と、その特徴についてであった。今日のところ“その2”は、明治政府の「祭政一致」、神道国教化の政策と廃仏毀釈などによる仏教のダメージ、そしてその後、神道国教化政策の行き詰まりから、教導職という失地回復の足がかりをつかむまでが語られている。それでは読み始めよう。
2.廃仏毀釈と教導職
明治政府の神道国教化政策と廃仏毀釈
日本における近代仏教の展開を考える時、明治初期から二〇年代までの明治政府による宗教政策の理解が前提となる。(抜粋)
このとき、
- 神道と仏教の関係(神仏関係)
- 祭祀と政治と宗教の関係(祭政教関係)
がポイントとなる。
明治政府が成立すると「祭政教(祭祀・政治・宗教)の一致」を目指す「神道国教化政策」が展開された。明治政府は、神祇官の再興、宣教師(神道を国教とする役割)を設置した。
この明治政府による神道中心の国家形成のため、排除されたのがキリスト教と仏教、そして民俗信仰であった。
キリスト教に対しては、キリシタン禁止令が継承され、諸外国の反対に関わらず明治六年まで続いた。
仏教に関しては、神仏混合に対する神仏分離の政策が次々と発せられる。そして、その後、全国各地の神社で仏像、仏具、経巻の破壊や除去、地域の仏教寺院の廃寺や統合等の廃仏毀釈が発生する。この廃仏毀釈で仏教は大きなダメージを受けた。
明治政府は文明開化の名の下に民俗信仰や民俗行事・習俗も抑圧する。
近世から近代へ、仏教の立場の変化
ここで著者は、近世で仏教が担ってきた政治的な役割から話を紐解き、それが近代になるとどのように変わっていったかついて解説する。
近世において仏教は、幕府体制の下で行政機関の末端を担い、安定した立場を保障されていた。江戸幕府は「本末制度」「寺壇制度」「寺請制度」という宗教政策を通じて、寺院と民衆を管理した。
- 本末制度:宗派ごとに本山・本寺~末寺の階層化の規定
- 寺壇制度:寺院が民衆の家(檀家)の葬祭を永続的の担当する社会制度。民衆はいずれかの寺院(檀那寺)の檀家となる義務がある。
- 寺請制度:キリスト教禁止令の後、寺院に檀家がキリスト教徒ではないことを証明する制度。(寺壇制度と連動)
幕府は本末制度によって寺院を統制し、寺院は寺段制度と寺請制度により幕府の行政機関の末端として「人別把握」(民衆管理)の公的役割を担った。
この体制は近代になると変化する。明治政府は新しい国家体制づくりにおいて寺院と僧侶を必要としなかった。新しく明治政府の行政機関の末端となったのは神社だった。そのため政府は、「神道が宗教ではなく、神社な国家の祭祀である」として、神道非宗教論を根拠づける。そして、神官、社家の世襲廃止と政府による人事掌握を行い、神社の射角制度も整える。こうして神社が国家祭祀の施設であり神官が官吏であると位置づける。
こうした神道国教化政策が勧められる中、仏教の特権剥奪の措置が続いた。仏教界は上知令により寺領が没収され経済的打撃を受ける。さらに決定的なダメージを与えたのが「肉食妻帯蓄髪勝手令」である。これまで真宗以外の僧侶に戒律により禁じられていた肉食、妻帯を明治政府が許可したのである。これにより、僧侶の身分は解体し、僧侶は職分(職業)となった。
僧侶であることの根拠を保証するのは戒律だが、それが無効化されたことで、僧侶のアイデンティティが揺らぐことになる(第十一章参照)。僧侶と寺院は、明治初期、完全に立場を失った。(抜粋)
神道国教化政策から神仏合同教化政策へ
仏教界は早々に失地回復の機会を得る。「教導職」への登用である。
明治政府による神道国教政策はなかなか実現せず、神祇官、宣教師による大教宣布は明確な成果をもたらさなかった。神祇官は、神祇省に格下げされさらに廃省となる。かわって宗教行政官庁となる教部省が新設された。
この措置により、祭祀は式部省、教法(宗教)は教部省の管轄となって祭教分離(祭祀と宗教の分離)が確立し、神道国教化政策は挫折することになる。(抜粋)
そして宣教師も廃止され、かわって教道職が設けられた。この教導職には、僧侶も登用された。そのため、教部省の管轄により、神官と僧侶が合同で民衆に対する教化活動を担うことになる。
これにより神道国教化政策は、神仏合同教化政策へと転換する。しかし教化内容は「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨尊守」からなる三条教則に厳しく制限された。
このような政策の大転換により、設立されたのが大教院である。
この教導職制と大教院体制への参加によって、仏教界は公的な立場を回復するきっかけを獲得した。(抜粋)
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