カール・シュミットの議会制民主主義批判と三種の国家体制 — 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利(その2)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第2章 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利(その2)

今日のところは「第2章 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利」、“その2”である。”その1“では、戦争の形態の変化から国家の民主化が促進され、さらに国家が議会制民主主義、ファシズム、共産主義の三者に分かれたことが解説された。

そして、今日のところ”その2“は、ファシズム、共産主義の背景として「カール・シュミットの議会制批判」から始まり、それに対する議会制民主主義側の反論、そして第二次世界大戦の終了により、ファシズムが淘汰されるところまでである。それでは読み始めよう。

カール・シュミットの議会制批判

ここから、時代を第一次世界大戦後まで戻り、前回の最後に登場したカール・シュミットの議会制批判の話となる。

カール・シュミットは、リベラルな議会制について批判し、それはすでに過去のものであると主張した。

彼は、議会での公開の審議を通じて真理(真の公益)に到達する議会制は、教養と財産を備えた階級のみの政治参加を前提とする体制であるとした。しかし、政党が対峙する現代の議会制民主主義では、議会での審議に通じて真の公益を目指して見解の一致をとることはすでにできない。そのためリベラルな議会制の意義はすでに失われていると考えた。

シュミットによれば、いまや「議会制度は、結局のところ、諸党派と経済的利害関係者の支配のための性悪な外装(Fassade)になって」いる。その結果、国家と社会の区別は希薄化し、国家は社会生活のあるあゆる局面への介入とあらゆる私益保護とを要求される「全体国家(totaler Staat)へと堕落している。(抜粋)

(ここで言う「全体国家」とは、人民の生活の全体を支配する強力な国家ではなく、「全体化」したがゆえに、社会の種々雑多な要求をすべて顧慮せざるをえない弱弱しい国家という意味で用いられている)

カール・シュミットの近代国家の理想型とリベラリズム

このカール・シュミットの議会制批判は、彼の近代国家の理想型に関する考え方によっている。

シュミットの理想は、国内は敵対行為を法的概念として排除し、平和と安全を創出する。このとき国内は行政しかなく、政治は存在しない。そして、「敵」と「友」に分かれる「政治的なもの」という概念を国家の単位に括りだしてしまう、というものである。

このように敵対関係が国家間に括りだされた結果、シュミットにとっても、戦争ないし戦争状態は国家の関係となる。

他方、敵対関係が存在せず、「政治的なるもの」が存在しない国家内部では、全国民に共通する利益が、立法活動を通じて実現されるはずである。(抜粋)

しかし、リベラリズムのもとでは「敵」と「友」の区別にためらいがなく、立法過程が多数の利益集団に占拠されてしまう。そのため、国家は利益配分装置に退化してしまう。

「議会制民主主義」と「ファシズム」「共産主義」

このような認識をしたうえで、シュミットは、秘密投票によって選ばれた代表による「議会制民主主義」を断念し、治者と被治者が自同性を持った民主主義を貫くべきであると考えた。

反論の余地を許さない公開の場における大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性を目指すべきである。(抜粋)

シュミットは、『現代議会主義の精神史的地位』において、時代遅れの議会制民主主義に代わって直接的な民主主義として「ファシズム」と「共産主義」を挙げている

どちらも治者と被治者の自同性を前提としていて、被治者内部の同一性を

  • ファシズム「民族」を基準
  • 共産主義「階級」を基準

として達成する。


ここので「ファシズム」が「民族」を基準とし被統治者内部(国)を均一化するという考え方は、「ポピュリズム」にも関係していて、ヤン・ヴェルナー・ミューラーの『ポピュリズムとは、何か』でも、シュミットについては、説明があったよ(ココとかココらへんを参照)。ポピュリズムは、「民族」を基準とした「われら人民」が幅を利かしているんだもんね。ちなみにヤン・ヴェルナー・ミューラーは、『カール・シュミットの「危険な精神」— 戦後ヨーロッパ思想の遺産』という本も書いているよ(つくジー)


しかし、このような「ファシズム」と「共産主義」社会が目指す均一的な社会(国家)は、現実的には実現困難である

国民全体の福祉を格差なく向上させるという国民国家の目標は、現実的には実現困難であり、国家の政策は常に勝者と敗者を生む。

そして議会制民主主義の場合は、この勝敗がある限界点を超えれば、多数派の交代が起こり勝者と敗者が入れ替わる。

しかし、選挙を通じた交代を否定する「ファシズム」や「共産主義」では、インサイダー(一等国民)とエスケープゴード(二等国民)の対立、支配階級と被支配階級の対立、あるいはそれを反映する国家間の対立が、国策によって生み出される矛盾・対立を説明解決する道具となる。そのようなイデオロギーは、国内に均質性をもとめる。つまり、国民の均一性は、国民国家の特質ではなく、国内における利害の対立を否定するイデオロギーの産物である。

実際には、第二次世界大戦では、リベラルな議会制民主主義諸国と共産主義国家との連合によってファシズムが粉砕された。民主主義に基づく福祉国家を実現する統治形態として真っ先に排除されたのはファシズムである。(抜粋)

関連図書:
カール・シュミット(著)『現代議会主義の精神史的地位【新装版】』、みすず書房、2013年
ヤン=ヴェルナー・ミュラー(著)『ポピュリズムとは何か』、岩波書店、2017年
ヤン・ヴェルナー・ミューラー(著)『カール・シュミットの「危険な精神」— 戦後ヨーロッパ思想の遺産』、ミネルヴァ書房、2011年

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