『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第六章 日蓮と法華信仰 日本仏教の思想5(頼住光子) (後半)
今日のところは「第六章 日蓮と法花信仰」の“後半”である。“前半”では、「王法と仏法」という論点をあげ、日蓮の為政者批判・現実批判と日蓮教団に対する弾圧などが考察された。今日のところ“後半”では、日蓮の生涯を追うとともに、『開目抄』『観心本尊鈔』を通して、日蓮の思想に迫っている。それでは、読み始めよう。
2.日蓮の生涯と思想
「旃陀羅の子」と「一乗仏」
日蓮は安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)に漁師の子として生まれる。その出自は、荘官クラス、網元を務める家柄とも言われるが、自らは「海辺の旃陀羅の子」と言っている。この旃陀羅は、インドのカーストの外に置かれた不可触民、チャンダラーに由来する言葉で穢れた被差別民という意味である。
日蓮がこのように自身をあえて、「旃陀羅の子」と称していることについて、著者は、一般的な差別意識に対して「一乗仏」(生きとし生けるものがすべて法華経の教えによって平等に成道に導かれる)の立場からの挑戦と考えられると言っている。また、自らを最下層、つまり秩序の外に置くことにより仏法という真理を梃子にして、その秩序全体を転覆させるポジションを獲得しようとしたとも考えられるとしている。
つまり、「旃陀羅」というのは、仏法の真理の立場から、眼前の日本という現実を認識し、それと対峙しようとする日蓮が、あえて選びとったポジションだったと言うことができるのである。(抜粋)
日蓮の出家
日蓮は、一二歳の時に出家して生家に近い清澄寺に入り、一六歳で得度した。日蓮は、後に入山について「日本第一の知者となし給え」と虚空地蔵菩薩に願を立てたと述べている。
通常、出家のきっかけは、この世の転変や近親者の老病死などの現実に接して無常観を感じたことによることが多い。しかし日蓮の場合はそうでなく、現実世界の真理すべてを知り尽くしたいということが動機である。著者はこの日蓮の出家の動機にその志向性が表れていると指摘している。
このような智は日蓮において、現実社会をどのように覆し変革すべきかのヴィジョンと結びついていくのである。(抜粋)
法華経との出会い
その後日蓮は、「日本一の智者」になるために比叡山をはじめとする京都、奈良、鎌倉、高野山の諸寺で研鑽をする。そしてその過程で『法華経』に出会う。
ここで著者は、『法華経』についての概略を説明する。『法華経』は、インドで成立した初期大乗仏教経典の『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』の漢訳である。三つある漢訳のうち、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が用いられる。その思想は天台智顗によれば「一乗思想」と「久遠実成思想」にまとめられる。
「一乗思想」とは、生きとし生けるものは皆、成仏可能であるという平等主義である。
「久遠実成」は、釈尊は時間・空間を超えて遍満する存在であり、時空を超えた根源的な真理を語る存在であることを示す。
中国天台宗は、『法華経』を第一の所依経典として成立し、それを最澄が日本に持ち帰り日本天台宗を開創した。そして日蓮をはじめ、法然、親鸞、道元などの鎌倉時代に仏教宗派を立ち上げた僧のほとんどは、青年時代に比叡山で『法華経』を学んでいる。
このように日本仏教史上で『法華経』の存在は重要であるが、中でも『法華経』を「最高」「唯一無二」とした上で、後述するように独自の理解を示したのが日蓮なのである。(抜粋)
唱題の布教と弾圧
『法華経』こそがこの世における万人の救済を可能にするという確信を得た日蓮は、故郷に帰り『法華経』信仰を宣揚し、そして念仏批判をする。しかし、念仏信仰者の地頭の恨みを買い、ほどなく故郷を追われ、鎌倉に拠点を移した。
鎌倉で日蓮は、布教活動を行うとともに、『立正安国論』を著する。『立正安国論』は、世人が『法華経』に帰依しないため仏法が衰えたことを憂い、国中の人が邪教を捨てて『法華経』(実乗の一善)に帰依すれば、全世界が仏国土となり「天下泰平」が実現できるとした。そして、もし帰依しないならば、他国の侵略や自国内の謀叛の「二難」は免れないと警告した。
日蓮は、この『立正安国論』を前執権で幕府の実力者の北条時頼に献上した。しかし、進言は無視されてしまう。しかし日蓮はこの国主諌暁の失敗にひるまず、厳しい他宗批判を繰り返した。
このような他宗批判は、幕府の弾圧を招き、四〇歳の時に伊豆に配流される。そして許され鎌倉に戻った後も、ひるまず他宗を激しく攻撃し、小松原の法難(念仏信仰者に襲われ、弟子や信者が死に日蓮自身も重傷を負った)や龍口の法難に遭う。日蓮が五〇歳の時に起こった龍口の法難では、斬刑に処せられそうになったが、危ういところで免れ佐渡に流された。
『開目抄』と『観心本尊抄』
日蓮は、流刑地の佐渡において不自由な暮らしの中、布教を行うとともに重要な著作である『開目抄』『観心本尊抄を著した。
① 開目抄
『開目抄』では、
- 二乗作仏:小乗仏教の徒である声聞乗・縁覚乗の二乗も成仏できるという、衆生成仏、万人救済の教え
- 久遠実成:永遠の過去に悟った釈尊による普遍的救済の教え
- 一念三千:凡夫の一念の中に絶対の真理が宿るという考え方である。(後述)
の3つ書かれ、この3つを備えているから『法華経』が最高の教えであるということを示している。
ここで、日蓮はこのような最高の教えを宣揚した自身をなぜ釈尊が守ってくれないかという疑問に突き当たる。そして、末法期に『法華経』を広めようとする行者は、そのような弾圧に合うことが、すでに『法華経』「勧進品」で予言されていると述べた。
日蓮は自分への弾圧は、『法華経』を身をもって読むことができた(色読・身読)あかしとし、むしろ『法華経』の真実性の成就であると捉える。さらにこのような自覚のもとに自身を「地涌の菩薩」とりわけその筆頭である「上行菩薩」になぞらえている。
そして、自身の法難の意味を、仏教の因果応報の考え方に基づき、過去世における悪行(『法華経』への敵対)の報いであると、捉えた。
日蓮は、過去世において『法華経』を弾圧することにより、『法華経』に結縁できたとし、それを現在の日蓮への弾圧者に適用すると、彼らは日蓮を弾圧することにより『法華経』に結縁し、来世以降に『法華経』によって救われる可能性が生まれることになる。
日蓮は、弾圧者たちから何度も暴力を受け、弟子や信者からは死者まで出てしまうが、日蓮の方から暴力的な行動に出ることは一切なかった。それは、弾圧者たちが、極言すれば、実は過去世の自分自身であるという自他一如の考え方に基づくとも言える。(抜粋)
「自他一如」とは、大乗仏教の「縁起 — 無自性 – 空」の思想に基づく、自己と他者はべつべつのものでなく相互相依の一体的なものであるという捉え方である。
② 観心本尊抄
『観心本尊鈔』では、現在は、「闘諍堅固」の時代(邪教・邪見がはびこり争いが盛んに起こる末世)であるとし(ココ参照)、そのうえで、日蓮は、この末世における「一念三千」の実践は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えること以外にはあり得ないと主張した。
題目によって、凡夫の心に「理」として具わった「一念三千」が顕在化し、現実の「事」としての「一念三千」と化するのである。(抜粋)
この「一念三千」とは、凡夫のこの一瞬の心にも真理の全体がこもっていて、人間の現実の心が真理世界と結ばれているという主張である。
天台智顗は、釈尊は永遠の仏(久遠実成)として永遠の昔から成仏しており、歴史上の釈尊はその一発現ととらえた。日蓮は、これを今、この一瞬の心において、無限と有限、永遠と歴史、真理世界と現実世界が出会っていると考えた。そして、釈尊や菩薩などの仏性(仏の本質・成仏の因)が人間の心の中に宿っているとした。
人間の心は、己一人に閉じた限定されたものではなくて、無限の時間、空間へと広がっている。中国天台宗の第三祖(実質的開祖)天台智顗や第六祖湛然が主張する「一念三千」は、この自己と真理との一体性を説いていたのである。(抜粋)
そして、「一念三千」は天台観法によって得られる超越的境地である。しかし、日蓮は、このような観法は末世の凡夫には成しえないため、代わりに題目が与えられたと主張する。
このことについては『観心本尊鈔』での終結部において、「難解な一念三千が理解できない者に対して、仏は大いなる慈悲をかけて、『妙法蓮華経』という題目五文字の内に、一念三千を包んで、末世の未熟な者たちの首にかけてやった」と記している。
つまり、釈尊が成就した功徳は、『法華経』の正式名称である「妙法蓮華経」の五文字に集約されているため、それを唱えることにより功徳を受けることができるということである。
そして、なぜ未熟なものにとって「妙法蓮華経」と唱えることが、観法の代わりになるかについては、釈尊が成就した功徳が、『法華経』の正式名称「妙法蓮華経」の五文字に集約されているからであるということである。
この釈尊が成就した功徳とは、真理の働きである。そして、「妙法蓮華経」の題目に帰依するという意味に「南無」(サンクリット語で崇敬を表す間投詞のナマス、ナモーの漢訳音写語)をつけて唱えれば、自分の中にもともとあった真理の働き(仏性)活性化し自覚される。
「功徳を受ける」と言っても、それは品物を受け取るようなことではなくて、自己に内在化する働きの自覚に他ならないのである。(抜粋)
また『観心本尊抄』において日蓮は、「本尊」についても独自の見解を示している。日蓮にとって釈迦は、永遠に働き続ける色形を超えた真理であり、それは凡夫の心の中に宿るとともに、『法華経』を説いて衆生を救済する外なる仏でもある。
つまり、本尊としての釈尊は「己心」の釈尊として内在するとともに外在する仏でもあり、その外在の仏によってはたらきかけられ、自分自身も「真理の外在化の象徴」としての題目を唱えることによって、内在する己心の釈尊を自覚し顕現することができるのである。(抜粋)
このような日蓮の本尊像は、当時興隆し「天台本覚論」とは一線を課すものである。(ココとココを参照)。
身延入山とモンゴル襲来、そして入滅
日蓮は流罪を許されたのち、鎌倉に戻り再び諫暁を行うが受け入れられず。信者からの寄進により身延山の草庵に移る。そこでなくなるまで著作活動と布教に努めた。
そして文永・弘安の役が起こる。日蓮はこのモンゴル軍の襲来を自らの予言の成就であると捉えた。日蓮は、人々が邪教に心を奪われたことが国難を招いたとし『法華経』に帰依せよと訴える。しかし、幕府が真言宗に行わせた祈祷による当時の人が考えた「神風」によりモンゴル軍は敗退してしまう。日蓮の日本再生へむけた構想は挫折してしまう。
日蓮は弘安の役の翌年に常陸の温泉に療養に向かい途中、信者の屋敷(今の東京池上本門寺)で入滅した。
この臨終の枕頭には、日蓮が多くの弟子や信者に書き与えていた大曼荼羅がかけられていた。この曼荼羅は中央に題目を書き、釈尊や上行菩薩などの仏菩薩、国を守る四天王を配置して、さらに日本の神も書き込まれている(ココ参照)。この大曼荼羅には世界のありとあらゆるものが、絶対的な真理のはたらきの現れであることがヴィジュアル的に示されている。
以上、述べてきたように日蓮は、自らを「上行菩薩」になぞらえ、生涯を通じて『法華経』の絶対的真理を説き続け、「娑婆即常寂光土」として、現実世界を仏国土化すること、つまり日本の国を、『法華経』を通じて仏国土にすることを使命として、自ら、忍難殉教の菩薩業に励んだのである。・・・後略・・・
三大誓願「我は日本の柱とならん、我は日本の眼目とならん、我は日本の大船とならん」という言葉に表れているように、日蓮は末法の日本で苦しむ人々を救うことを志し、現在もその教えに、仏教に基づく現実改革の教えとして大きな影響力を与え続けているといえるのである。(抜粋)
日蓮については、先に松尾剛次の『日蓮 「闘う仏教者」の実像』とそれに関連して北川前肇の『宮澤賢治 久遠の宇宙に生きる』を読んでいたので、他の鎌倉仏教の祖師よりも分かった、というかアドバンテージがありましたね。「一念三千」などの概念は、ちょっと難しくて全くチンプンカンプンだったのですが、ここの手短な記述を読んで、なんとなく「そうだったのかね」とまぁ文字ずらではありますが、ちょっとわかった気がした。(つくジー)
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関連図書:
松尾剛次 (著)『日蓮 「闘う仏教者」の実像』、中央公論新社(中公新書)、2023年
北川前肇 (著) 『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』、NHK出版 (NHKこころの時代)、2023年
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