みずから語る生の軌跡 — 孔子の人となり(その1)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 孔子の人となり(その1)

今日から「第一章 孔子の人となり」に入る。ここでは、孔子がどのような人であったかを、その人生と逸話より探っている。

第一章は、“その1”“その2””その3”に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。

みずから語る生の軌跡

No.1

子曰しいわく、十有五じゅうゆうごにしてがくこころざす。三十さんじゅうにしてつ。四十しじゅうにしてまどわず。五十ごじゅうにして天命てんめいる。六十ろくじゅうにして耳順みみしたがう。七十ななじゅうにしてこころほっするところしたがって、のりえず。(為政第二)(抜粋)
先生は言われた。「私は十五歳になったとき、学問をしようと決心し、三十歳になったとき、学問的に自立した。四十歳になると、自信が出来て迷わなくなり、五十歳になると、天が自分に与えた使命をさとった。六十歳になると、自分と異なる意見を聞いても反発しなくなり、七十歳になると、欲望のまま行動しても人としての規範をはずれることはなくなった」。(抜粋)

これは、孔子が自らの生涯を段階的にたどった自叙伝である。簡単な言葉で孔子の軌跡が刻まれている。(はじめにの「孔子の生涯」を参照)

『論語』のこの記述から、後に

  • 十五歳:「志学しがく
  • 三十歳:「而立じりつ
  • 四十歳:「不惑ふわく
  • 五十歳:「知命ちめい
  • 六十歳:「耳順じじゅん

と呼ぶようになる。


ここの条は、日本人ならばだいたい知ってるって、感じでしょうか?ただ、孔子の経歴ときちんとあっているんですね。それはそうと言えばそれはそうなんですけどもね(つくジー)

No.2

大宰 子貢しこういていわ]く、夫子ふうし聖者せいじゃか。なん多能たのうなるや。子貢曰しこういわく、もとより天れをほしいままにしてまさせいならしめんとす。多能也たのうなり れをきていわく、大宰たいさいれをれるか。わかくしていやし。ゆえ鄙事ひじ多能たのうなり。君子くんしならんや。ならざるなり。(子罕第九)(抜粋)
大宰たいさい(呉の大臣)が子貢しこうにたずねて言った。「あなたの先生は聖人なのでしょうね。それにしては、なんとまあいろいろな才能をもっておられることか」。子貢入った。「もともと天が先生を自由自在に行動させて聖人にしようとしているのです。それでまたいろいろな才能をおもちなのです」。先生はこの話を聞いて言われた。「大臣は私のことをよくご存じだね。私は若いとき貧しく身分が低かった。だから、つまらない仕事がいろいろできるのだ。しかし、君子は多芸であってよかろうか。いや、多芸であってはならないのだよ」(抜粋)

この大宰は、呉王夫差ふさの腹心で、強欲な政治家であった大宰嚭たいさいひである。ここでは、大宰嚭が孔子の高弟の子貢に孔子は本当に聖人なのか、それにしては多芸すぎる、と嫌味な質問をする。子貢は、これに対し孔子は天が自在にその才能を伸ばさせ聖人にしようとしているから、とやや精彩の無い答えをした。これを聴いた孔子は、自分が貧しかったので必然的にそうなったと、自分の経歴を何のひけ目もなく堂々と言っている。そして、さらに君子は多芸であってはならないと付け加えた。

No.3

子曰しいわく、君子くんしうつわならず。(為政第二)(抜粋)
先生は言われた。「君子は用途のきまった器物であってはならない」。(抜粋)

君子は、専門家、文化、特化した器ではならないという言葉である。著者は、本来の君子の意味、つまり上流階級に属し、美的、倫理的な修練を積んだ人物という意味だが、孔子の君子像は、階級を超えた広がりを持っていると評している。

No.4

 大廟たいびょうりて、ことごとにう。あるひといわく、たれ鄹人すうひとれいるとうか。大廟たいびょうりて、ことごとにう。 これきていわく、礼也れいなり。(八佾第三)(抜粋)
先生は大廟たいびょうにお参りされたとき、一つ一つ係の者にたずねながら振る舞われた。ある人が言った。「いったい誰があのすいにいた男の息子を礼に詳しいなどと言うのか。大廟に参って、いちいち質問したというではないか」。先生はこのことを伝え聞いて言われた。「そうすることが礼なのだ」。(抜粋)

孔子が大廟を訪れたときに、いちいち係りの人にふるまいを訪ねたのを見て、孔子のことを快く思わなかった人が、「誰があの人を礼に詳しいというのか」と皮肉を言った。そのことを聞いた孔子が「そうすることが礼である」と核心をつく反論をしたという話。ここで、鄹人の子とは、孔子の父の拠点の鄹が片田舎であることを皮肉った表現であるとのことである。

No.5

 公冶長こうやちょうわく、あわすなり縲絏るいせつうちりといえども、つみあらざるなりと。もつれにあわす。(公冶長第五)(抜粋)
先生は公冶長こうやちょうを評された。「娘を嫁にやってもいい男だ。罪人として縄で縛られ投獄されたことがあったが、無実の罪だった」、かくて自分の娘を彼のもとに嫁がせた。(抜粋)

孔子が公冶長を評していった言葉。実際に孔子の娘を公冶長のもとに嫁がせている。著者は、牢獄から生還した公冶長の絶体絶命の危機を乗り越える力を確信して娘をゆだねたのではないかと推測している。なんよう

No.6

 南容なんようわく、くに道有みちあれば、てられず。くに道無みちなければ、刑戮けいりくよりまぬかれんと。(公冶長第五)(抜粋)
先生は南容を評された。「国家に道理があるときは、無視されることなく、国家に道理がなくなったときも、刑罰や殺戮の禍にあうことはない」。そこで、兄の娘を南容のもとに嫁がせた。(抜粋)

これはNo5と同じく姪(兄の娘)の配偶者として南容を選んだという話。南容の安定感を孔子は評価している。

前条の公冶長こうやちょうに比べ、はるかに無難な選択だが、彼ら二人に共通するのは、危機的状況においても、生きのびる力があるということだろう。乱世の知恵にあふれた婿選びである。(抜粋)

No.7

陳亢ちんこう 伯魚はくぎょいていわく、異聞有いぶんあるか。こたえていわく、いまだし。かつひとてり。鯉趨いはしりてにわぐ。いわく、まなびたるかと。こたえていわく、いまだしと。まなばずば、もつしと。鯉退りしりぞいてまなぶ。他日又たじつまひとてり。鯉趨いはしりてにわぐ。いわく、れいまなびたるかと。こたえていわく、いまだしと。れいまなばずば、もつつ しと。鯉退りしりぞいてれいまなぶ。たつものけり。陳亢退ちんこうしりぞいてよろこんでいわく、いちいてさんたり。き、れいき、君子くんしとおざくるをなり。(李氏第十六)(抜粋)
陳亢ちんこうが、伯魚はくぎょ(孔子の息子、孔鯉こうりのあざな)にたずねて言った。「あなたは(お父上から)何か特別なことを聞かされたことがありますか」。答えていった。「別にありません。ただ、以前、父が一人で部屋のなかに立っていましたとき、私が小走りに庭を通り過ぎようとすると、呼びとめて「詩は学んだか」と言いました。私が、「まだです」と答えると、「詩を学ばなければ、ちゃんとものが言えないよ」と言いました。それで私は自室にもどって詩の勉強をしました。また別のある日、父がやはり部屋のなかに立っており、私が小走りに庭を通り過ぎようとすると、呼びとめて、「礼を学んだか」と言いました。私が「まだです」と答えると、「礼を学ばなければ、ちゃんとやってゆけないよ」と言いました。それで私は自室にもどって礼の勉強をしました。私が聞いたのはこの二つのことです」。陳亢は家に帰ると喜んで言った。「一つの質問で三つのことを聞くことができた。詩のことを聞き、礼のことを聞き、さらに君子はわが子に距離を置いて教育することを聞いた」。(抜粋)

孔子が息子も孔鯉こうりにたいしてどんな教育をしたかという話。当時は肉親であるがゆえの弊害があるため、君子はちょくせつわが子を、教育しないのが、礼であるとされていた。

そのなか孔子は、もっとも大切なことをさりげなく伝えているとして、「圧迫感を感じさせない見事な教育である」と評している。

No.8

葉公しょうこう 孔子こうし子路しろう。子路対しろこたえず。子曰しいわく、女奚なんじなんぞわざる。ひとりや、いきどおりをはつしてしょくわすれ、たのしんでもつうれいをわすれ、いのまさいたらんとするをらざるのいと。(述而第七)(抜粋)
しょう公が、孔子はどんな人かと子路しろにたずねたところ、子路は答えなかった。先生は言われた。「おまえ、なぜ言わなかったのか。その人柄は、興奮すると食事も忘れるが、楽しむときは憂いを忘れ、老いが迫るのも気がつかない人だと」。(抜粋)

弟子の史路が葉公に孔子の人柄を尋ねられたとき、その人柄をうまく表現できなかった。それを知った孔子自身が自分のことを評していった言葉である。この言葉を著者は、

どんな逆境にあっても、躍動感あふれる明朗さを失わず、たくましく生きたみずからの姿をみごとに表現した言葉である。(抜粋)

と評している。

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