『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第4章 合衆国の始まり ― 一七八七~一七八九年 (前半)
今日から「第4章 合衆国の始まり」に入る。連邦憲法制定会議で妥協に妥協を重ねて署名されたアメリカの憲法であるが、この後、各邦での批准も大きな議論となった。そしてやっと成立する。そして、ワシントン執行府により第一議会が開催され、権利章典の採択などが行われた。
第4章は、”前半“と”後半“の二つに分けて、まとめることにする。まず”前半“では、アメリカ憲法の各邦での批准までの過程を、そして”後半“では、第一議会での権利章典の採択までを取り扱う。それでは、読み始めよう。
合衆国憲法の批准
合衆国憲法が成立するためには、各邦議会での批准が必要であった。成立の基準は、一三邦のうち九つの邦の批准によると定められていた。憲法制定会議に出席した代表は、どちらかというと強い連邦の形成に肯定的な人であった。しかし、各邦には、連邦憲法の制定に否定的な政治家も多くいた。
連邦憲法制定会議の代表たちは守秘義務があるため、憲法の各部分に誰の意見が通ったかなどは他の人にはわからなかった。そのため、彼らは批准のために会議では反対した条項にも全力で賛成し、代表たち協力しながら批准のために働いた。
ペンシルバニアの批准
ペンシルバニアでは、フィラデルフィア近郊では、批准賛成派が多かったが、内陸部では、批准に反対する人も多かった。さらに連邦憲法制定会議で署名を拒否した人の反対意見なども出回った。ヴァージニアのメイソンの反対意見には、
- 権利章典が欠けている
- 連邦上院が強すぎる。人々の自由を簒奪する危険がある。
- 連邦裁判所が邦の裁判所を飲み込んでしまうのではないか
- 参議会がないのは大問題である。大統領の助言者がいない。
- 代わりに助言を上院が行うことで権力の融合が起きている
などがあった。
そして邦を超えて、憲法に賛成する人を「フェデラリスト」、反対する人を「アンチ・フェデラリスト」と呼んだ。
批准反対派(ウィリアム・フィンドレー)は、連邦憲法があまりに多くの権力を連邦に集めているため、やがて邦が無くなってしまうと主張した。その根拠は、邦の主権が文言上に無いこと、連邦が課税権を持っていることであった。
それに対して、賛成派(ウィルソン)は、人民に主権があるため連邦と邦の主権の区別は無意味と反論し、さらに代表制を採用したのがアメリカ合衆国の優れた点であり、人民主権に基づく代表制を世界に先んじて創出しなければならないと訴えた。
このペンシルバニアの批准会議は「オープンドアルール」(市民が会議上に入ることが出来る)で行われた。連邦憲法制定会議が密室で行われたのと対照的である。それは、批准賛成派が、同じく賛成派が多きフィラデルフィアの市民の援護をもらうためのものだった。
会議の結果、フィラデルフィアでは、ダブルスコアでの批准が決まる。
また、それに先んじてデラウェアでも批准された。デラウェアでは、隣のペンシルバニアの高関税に苦しまなくて済むこと、上院の代表数がどの邦も一緒であることが批准賛成に大きな誘因となった。
『フェデラリスト』
このような各邦での批准の争いは、紙面上の論争という形をとった。ニューヨークでは、「カトー」「ブルータス」などのペンネームによる連載が始まった。
そのような動きのなかで、ハミルトンが批准を擁護する連載を始めることにした。
一〇月二七日に「パブリアス」という名で、インデペンデント・ジャーナル紙上で始められたこの連載こそ、のちに『フェデラリスト』として合衆国憲法論の古典になるものである。(抜粋)
ハミルトンは、ジョン・ジョイとマディソンを誘い、三人で執筆を開始した。最初こそお互いの原稿を読み合って執筆したが、ジョン・ジョイは途中で離脱し、ハミルトンとマディソンも激務のため、じょじょに互いの主張をきちんと把握しないまま書き進める。
この連載は、合衆国憲法の長所をこのうえなく伝えていて、その議論の独創性と後世に与えた影響から今日でも古典として読まれ続けている。
ここで著者は、全八五編からなる『フェデラリスト』のうち特に優れている2編を紹介している。
大きな共和国論 『フェデラリスト』 五一編
まずは五一編の大きな共和国論である。これは、共和国というものは、領土が大きい方が良いという主張である。これは、当時の政治学上の通説に反するものであった。
モンテスキューの『法の精神』により、当時は大きな共和国が不可能であるというのが常識であった。モンテスキューは、「小さな共和国では人々が自分たちの徳によって国を支えようとするが、大きな国では大きな利益があるので、人々はそれに釣られて国の共通善をないがしろにしてしまう」とした。
これに対してマディソンは、共和国は大きくないと無理と主張する。マディソンは、「政治では、不可避的に派閥が形成してしまう。そして小さい国家では、一つの派閥が国全体を牛耳り、少数派を抑圧してしまうことになる。その悪影響を軽減するには、国家を大きくすればよい」と主張した。マディソンは、「大きな国でかつ代表制を導入すれば、人々はバラバラのままで、一つの派閥が支配的になりづらく、大きな共和国でのみ、少数者の保護が可能になる」と考えた。
抑制均衡論 『フェデラリスト』 四七編
ここで問題になったのは、権力の分立に関する議論である。批准反対派は、ここでも『法の精神』に憲法が反していると主張した。彼らは、「大統領と上院との危険かつ早計な結合」と上院における三権の融合が問題だとした。
これに対してマディソンは、「権力分立とは、三つが完全に独立しているべきではない」とした。「相互に不干渉なのではなく、他の部門が侵害してきたときに、防御となるような手段を持つ」と主張した。そしてこのような憲法構造を「抑制均衡」と呼び、大統領と上院の関係もまたその意味で権力分立と言いうると主張した。彼は、モンテスキューも権力を分けるというとき、完全な独立を意味していたのではなく、部分的な重なり合いを前提としていると『法の精神』を解釈していた。
マサチューセッツの批准
このような全米中の議論を背景に、マサチューセッツ邦で批准会議が始まった。議長は、独立宣言採択時も大陸会議の議長を務めたジョン・ハンモックが選ばれた。しかし、彼は会議当初は痛風の為、参加できない状況だった。マサチューセッツでも反対派と賛成派が拮抗し、批准の見込みは立たなかった。
その事態は二つの事柄により急変した。
- 修正案の付帯:批准に賛成・反対というのではなく、修正案を付帯するという条件で批准するという案
- 議長ハンモックの登場:ハンモックは、病気を押して議場に登場した。批准賛成派のルーファス・キングは、激戦が予想されるヴァージニアがもし批准を否決すれば、ワシントンがいなくなり、あなたが大統領になるだろうと、ハンモックをたきつけた。ハンモックはその提案に乗り、九つの修正案を議場に提示した。
それを受け、マサチューセッツでは僅差で批准された。これ以降、他の邦でも修正意見を付しての賛成がみられるようになった。
ヴァージニアの批准
マディソンのお膝元のヴァージニアでも、強力な反対派がいた。その中で一番目立ったのは、ヘンリーであった。かれは、
- 大統領の強大な権限のため君主制に戻ってしまうことへの懸念
- 憲法前文の「我ら人民 (we the people) 」という表現は、邦の代表が作った憲法にそぐわない
という点で批判し、それに賛同するものも多かった。
そして数週間に及ぶ議論の後、僅かな差でヴァージニアは批准を決めた。
このヴァージニアの批准の後、ニューヨークも批准を決定し、最終的に無事に連邦憲法が成立した。
大統領をめぐる論争
このような憲法批准をめぐる過程で展開された政治思想のうち、先述の大きな共和国論と三権分立以外に、大切なものとして「執行部の単一性」の問題があると著者は指摘している。
批准反対派から見ると、大統領が単独で執行権を行使するのは、危険な状況で、君主制に戻ってしまうという懸念があった。そのため考えられたのが、参議会という機構を助言者としてつけ大統領の権力を抑えるという方策である。
しかし憲法案では「執行権はアメリカ合衆国大統領に属する」と書かれ、ハミルトンはこれを執行府の単一性を意味すると解釈した(『フェデラリスト』七〇編)。ハミルトンは、大統領に参議会のようなチェック機構をつけると、かえって大統領の負うべき責任を曖昧にしてしまい、また緊急事態における迅速な意思決定を困難にしてしまうと主張した。その立場に立つと参議会は有害な者でしかない。
この両者の議論は平行線のままとなり、大統領と上院の関係は、実際の連邦政治が始まっても以降も、たびたび現実政治の問題となる。
マディソンと権利章典
批准論争において重要なトピックスだった権利章典は、すぐに問題とならなくなった。それは、マディソンらによって各邦の代表により署名されたアメリカの憲法は、この後、各邦での批准の時にも大きな議論となった。論争は新聞紙面上の論争に発展し、ハミルトン、マディソンらが執筆した『フェデラリスト』は、今でも、憲法論の古典として読み続けられている。:『アメリカ革命』より
からである。
マディソンが、反対していた権利章典に賛成したのは、反対派のヘンリーが選挙によってマディソンを追いつめたという理由と、権利章典に賛成のジェファソンとマディソンの書簡でのやり取りという理由があった。
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