『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想1(頼住光子) (その1)
今日から「第二章 仏教伝来と聖徳太子」に入る。第二章の内容は、
- 仏教を考える視点として、人間の自我や共同体の成り立ちとその外部に存在する「超越的なもの」との関連性を調べる。
- その上で、仏教の受容をについて、儒教受容との対比、『日本書紀』による記述などを通して検討する。
- 最後に「和国の教主」とも呼ばれ、日本仏教の定着の方向性を定めた聖徳太子とその『十七条憲法』を取り上げる。
である。
第二章は上の3つを”その1“、”その2“そして”その3”と3つに分けてまとめることにする。それでは読み始めよう。
仏教を考える視点
「超越的なるもの」と人間
まず著者は、宗教の基礎として「超越的なるもの」という概念があるとしている。現代においては、宗教を「荒唐無稽」な神話や宗教的ドグマに基づいた社会的紐帯などはすでに先代の遺物と化している。しかし、人はこの「超越的なるもの」から逃れることはできず、現代のような高度消費社会の中でさまざまなシンボルやイメージが「超越的なるもの」の役割を果たしている。
人間の精神が発達する長い年月において、自己や共同体、生と死やさまざまな概念のよりどころとして神、仏、天、霊、道、法(ダルマ)、理、真実性と呼ばれる「超越的なもの」に支えられてきた。
ここで著者は、イタリアの民俗学者E・デ・マルティーノの『呪術的世界 — 歴史主義的民族学のために』から例を引いて、この「超越的なもの」という概念を補強している。
そして、
ともすれば流動化し、「即融」状態に陥りがちな原初の意識に統一性を与える、いわば虚焦点(imaginary focus)が、「超越的なもの」である。(抜粋)
としている。今、ここにいる「この私」と、その外側の「今」でなく「ここ」でなく「この私」でないものと有機的に結びつけるものが、この「超越的なもの」である。そしてこの「超越的なもの」は、「この私」とその延長線上の「共同体(私たち)」を基礎づける。
文化と自然
この「超越的なもの」の概念により、「(人間を含めた)万物の母胎:原自然=一次的自然」が「文化の領域」と「自然の領域」(環境としての自然=二次的自然)の二つに分節する。
- 文化の領域:私たち人間の共同体
- 自然の領域:人間の生活領域の基盤
この自然の領域は一見、人間たち(文化の領域)に馴致されたかに見えるが、自然災害のように共同体を危機に陥れることがある。
その意味で、文化と自然(二次的自然)を超越した原自然は、完全に分節され得ない絶対的な力そのものである。「超越的なるもの」は、現自然と二次的自然との、また、自然と文化との分岐点に位置して、両者を司るものとされる。(抜粋)
原始においては、人間の意識と共同体の成立は「超越的なるもの」の成立でもあった。現代においては、宗教という文脈での「超越的なるもの」の関心は低下したが、一方、それに代わる様々なイメージやシンボルが登場して、人の自我や共同体のアイデンティティを支えている。
宗教は古来よりこのような関りで、教義、儀礼、組織を発達させてきた。そして古今東西様々な宗教を生み出し、自我と共同体を支えてきた。
日本では、土着の信仰にユーラシア大陸から伝わってきた宗教が相互に影響を与え発達してきた。そして、特に大きな影響を与えたのが仏教である。
以下では、日本の伝統的な思想や文化的を考える上で不可欠な仏教について理解することを通じて、「超越的なるもの」との私たち自身の関りについて改めて考えたい。(抜粋)
外来思想と日本の思想・文化
日本の思想・文化は、仏教、儒教、道教、さらに西洋思想などの外来の思想・文化に影響されてきた。日本人はそのような思想を選択して受入れ、自らに適合するように再解釈を施して根付かせた。
日本の思想・文化と仏教と儒教
ここでは仏教とともに日本文化に大きな影響を与えた儒教に着目し、仏教と儒教を対比させて、仏教の日本への定着について考える。
仏教も儒教も朝鮮半島経由して中国からもたらされたものである。ここで古代日本に伝わった儒教と仏教のうち、儒教は漢民族の中で生まれたものだが、仏教はインドが発祥である。そのため、儒教も仏教も外来のものとして受け入れた日本と中国では、問題を考える前提が大きくことなる。
中国と日本の仏教についての比較で大きく異なるのが廃仏である。中国でも日本でも儒学者は、仏教を批判しているが、中国ではたびたび王朝主導での廃仏があったが、日本では、明治維新期の廃仏毀釈運動を除けば、全国的規模の廃仏は実行されていない。
日本においては寺請檀家制度に顕著なように仏教は公的な分野に入り込んでいた。儒教の方は、仏教に比べれば中国ほど強い影響力を持たなかった。中国での儒教の主要な担い手は科挙官僚であったが、日本ではこの科挙制度を採り入れなかった。そのため日本で士官の機会を得て、儒教的理念をもとに手腕を振るえたのは、林羅山、新井白石、荻生徂徠などの一部の人だけである。
日本での儒教は、『論語』『孝経』などの教養に留まり、仏教こそが、寺請檀家制度や庶民教化、各種の習俗的信仰などを通じて、最も身近で強い影響力を持つもつものであった。
仏儒関係の三類型
著者は、この仏教と儒教のあり方は3つの類型に分けられるとしている。
- 対立:最初は、対立である。江戸時代には、儒者により仏教の批判が起こった。そして江戸初期には、水戸藩や会津藩などで一時期、廃仏政策が行われた。こうした儒教の仏教に対する否定的な態度に対して仏教側では、攻撃的に儒教を非難することは少なかった。これは仏教が方便として異なる教えを治める回路を持っていたからと考えられる。
- 融和:仏教と儒教を独立なものと認め、両者ともにその存在を肯定するもの。この場合は、ある究極的な真理の顕現として両者を認める場合と両方は異なる機能を持ち互いに補い合うと考える場合がある。仏教側からは、護教的な主張として融和(共存)が見られることが多い。
- 包摂:これは一方が上位に立って、他方を取り込む場合である。空海の十住心[じゅうじゅうしん]論では、仏教が上位であり、荻生徂徠の理論では、儒教が上位となる。
関連図書:E・デ・マルティーノ(著)『呪術的世界 — 歴史主義的民俗学のために』、平凡社、1988年
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