『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第2章 独立 ― 一七六三~一七八七年 (その4)
今日のところは「第2章 独立」の“その4”である。ここまで“その1”、“その2”、“その3”とアメリカが独立に至る過程を見てきた。今日のところ“その4”では、イギリスとの戦争の終結やそれに至る外交政策、そして各邦を束ねた連合会議が機能不全に陥る過程などが描かれている。それでは、読み始めよう。
連合規約の制定
一七七七年五月に戦争の激化で一時中断していた連合規約が再び論じられ始める(ココ参照)。ここでの草案は「主権は各邦にある」ことを確認し、そして「一三の邦が各一票を対等に持ち九票をもって可決する議会」というものである。
しかし、この案は多くの邦の反発にあい一七八一年まで成立しなかった。この案のなかで「西部問題」、つまり新しく開拓された領域を連合会議に帰属させるという部分が利害関係のある邦が強く反発した。そして、政治的妥協を重ねて三年後にやっと成立する。
この連合規約の文言として重要なのは、各邦に主権があると明示されたこと(二条)、共同の防衛、自由の保障、共通の福祉を目的として相互に援助すると定められたこと(三条)、外交権が連合会議にあるとされたこと(六条)などである。しかし後述するように、これはただちに機能不全となった。(抜粋)
イギリスからの独立
アメリカが独立戦争中に頼みにしていた手段は外交である。頼りにしたのは、ヨーロッパでイギリスと覇権を争った国々、つまりフランスとスペインだった。大陸会議は、ベンジャミン・フランクリンやジョン・アダムズなどの政治家をヨーロッパに派遣した。そしてサトラガの戦い(ココ参照)で形勢が変化したあと、米仏の条約が成立した。フランスは海軍を派遣すると戦況は英海軍に不利なものとなった。
同じくスペインも戦争に参加しアメリカ大陸だけでなくヨーロッパの英領を攻撃し包囲した。そしてインドではマイソール王国がフランスと手を組み、イギリス東インド会社と戦闘を行った。このように多くの場所で同時多発的にイギリスを追い詰める国際情勢となる。これによりイギリス軍は、軍をアメリカだけに集中させることが不可能になった。
この情勢は植民地側に朗報だった。アメリカは、軍事行動の意見の相違や人々の困窮のため空中分解寸前だった。その後、お互いに損害を被りながら続いた戦争は、一七八一年にヨークタウンの戦いにおいて決定的な敗北を英軍にもたらした。
英軍は敗戦濃厚となったが、アメリカの一三邦以外の植民地がドミノ倒しのように独立することを懸念してなおも戦い続けた。
一方アメリカ側も財政状況が危機的だった。アメリカはフランクリンがフランスからアダムズがオランダから高額を借り受けることによりその財政危機を乗り越えた。
戦争の終結
一七八二年にイギリスのノース内閣が倒れると政局が変化する。アメリカのフランクリンとジョン・ジョイがイギリス政府と交渉を重ねた。イギリス側は戦後にアメリカとフランスの関係が良好なのを嫌った。アメリカ側もイギリスに妥協しないが、孤立は避けなければならなかった。
一七八三年九月三日、イギリス、アメリカ、フランス、スペインのあいだでようやくパリで条約が結ばれ、八年以上にわたる、苦しく長い戦争は終わった。(抜粋)
パリ条約では、
- イギリスはアメリカの独立を認め軍隊が撤収
- 北西部の領土がアメリカのものとして認められる
- フランスは、トバゴ、セネガルといった大西洋の主要拠点を獲得
- インド領は、イギリスそのままイギリスが保有
- スペインは東西フロリダとメノルカを再獲得
となった。イギリスは、アメリカに敗れたが帝国領土をほとんど保ち、次世紀の大英帝国へとつながる勢いを保つ。その後も弱小国のアメリカのため、一七八四年からジェファソンがパリに赴き、また、駐英大使としてジョン・アダムズが派遣され、外交に奔走した。
一七八七年の北西部条例
独立戦争後、大陸会議は、パリ条約で獲得した北西部の領土に対して、個々の邦が新たに領土を獲得して西方に広がることを認めず、連合全体で、新たな邦を設置するとする条例を制定した。
そして新たな邦に対しては統一した基準を設けた。その中で最も重要なことは奴隷を禁じる決定である。
これにより、北西部は連邦権力のもとで拡大していったが、北西部には多種多様な人々が存在していたため、多くの対立が生じた。
連合の機能不全
独立後、連合会議は徐々にほころびが見え、機能不全に陥った。連合会議の最大の弱点は、歳入を得るための独自の権限がない事だった。
イギリスは、アメリカへの貿易を禁じ、またアメリカは諸外国への借金の返済もあり、経済的に困窮した。
それに加えて以下の3つのことにより連合が解体の危機をもたらした。
外交の問題
一つは外交の問題である。独立後、再び米、英、仏、西と先住民族でフロリダなどのフロンティアで抗争がつづいた。そして、アメリカ西部のミシシッピ川の航行権をめぐってアメリカとスペインが交渉を行った。このミシシッピ川は、南北にアメリカを貫く大河川であり、そこの航行権をスペインに握られると南方では西部に進出できなくなる。そのため北部の邦と南部の邦が対立し、条約を批准するための票が集まらなかった。
通商上の軋轢
連合では、それぞれの邦が関税を好きに決定できるようになっていた。そのため、大きな港をもつ邦が関税率をあげると、その隣の小さな邦は否応なしにそれに従わなければならなかった。そしてそのような小さな邦の経済的損害は大きくなり、不満が高まっていった。
ジェイムズの乱
マザチューセッツにおいて、独立戦争の給料の未払いのため困窮し負債を抱えた軍人、農民が負債の減額を求めて反乱を起こした(ジェームズの乱)。この乱は、政府により鎮圧されたが、このような経済的な混乱と社会情勢の不安定化が各邦であらわれ、邦を超えた経済政策が必要であることが明らかになった。
連邦憲法の制定へ
このような連邦会議の状況を何とかするために、ジェイムズ・マディソンとアレクサンダー・ハミルトンが、一七八六年にアナポリスで会議を開くが、各邦の関心は薄かった。
それに困ったマディソンとハミルトンは、この問題が連合規約自体にあると思い、改めて連合規約の改正を検討する会議を一七八七年五月にフィラデルフィアで開催するように取り決めた。かくして連邦憲法制定の舞台は整った。フランクリン、ディキンソン、メイソン、ワシントン、ハミルトン、マディソン --- 本章にも登場した、当時を代表する政治家たちがそれぞれの邦を代表して、終結することになったのである。(抜粋)
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